病人の眼からさえぎるような恰好で、ベッドの前に立ちふさがった。――「もうお寝なさい」と、すぐまた続けて彼女は少年に言った。
「だっておばさん、ぼく睡くないもの。」
「いいえ、フェージャ、いい子だからもうお寝なさい……時刻ですよ……もうお寝なさい」とカテリーナ・リヴォーヴナはくり返した。
「どうしてなの、おばさん! 僕ちっとも睡くないのにさ。」
「いいえ、寝なくちゃ駄目、寝なくちゃ駄目」と、カテリーナ・リヴォーヴナは又しても声変りのした、おどおど声でくり返しざま、少年の腋の下をかかえて、むりやり枕につかせた。
 その瞬間、フェージャは狂気のような悲鳴をあげた。まっ蒼な顔をして跣足ではいって来たセルゲイを、少年は見たのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナは自分の手の平でもって、おびえあがった子供が恐怖のあまり開けた口をふさいで、こう叫んだ。――
「さ、早くおし。しっかり抑えて、じたばたさせるじゃないよ!」
 セルゲイがフェージャの両手両足をつかまえると、カテリーナ・リヴォーヴナはあっという間もない早業で、受難のあどけない小さな顔を大きな羽根枕でふさいで、その上から自分のぴちぴちした硬い胸でもって、ぐいと乗りかかった。
 ものの四分間ほど、部屋のなかは墓場のような沈黙だった。
「さ、お陀仏だ」と、カテリーナ・リヴォーヴナはささやいて、どれ後始末をしようと身をもたげたその刹那、度かさなる犯罪を秘めて森閑としているその家の四壁が、耳を聾せんばかりの打撃を受けて、ぴりぴりと震動しだした。窓ががたつく、床板がゆらゆらする、吊るしてあるお灯明の鎖がふるえだす、という騒ぎである。それのみか、壁から壁へまぼろしのような影が、ちらちらする始末だった。
 セルゲイはがたがた顫えて、一目散に駈けだした。カテリーナ・リヴォーヴナはそのあとを追ったが、ざわめき立つ物音も二人のあとを追って来た。さながらそれは、何かしら地上のものならぬ威力が、罪ぶかい家を土台骨まで揺さぶっているようだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナの心配したのは、セルゲイが恐怖のあまり我を忘れて中庭へ駈けだし、そのとりみだした態度で衆人の疑念を買いはしまいかということだったが、案に相違して彼は、まっすぐ屋根裏へ突進していった。
 階段を駈けあがりきったところで、セルゲイは暗がりの悲しさ、半びらきになっていたドアに嫌っとこさ額をぶ
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