ナ・リヴォーヴナがはいってくるのを見ると、ぎくりとして、本を膝へとり落した。
「どうかしたの、フェージャ?」
「ああ、おばさん、僕ただ、なんだかびっくりしたの」と少年は、おずおずと頬笑みながら答えて、ベッドの隅へ身をにじらせた。
「何をびっくりしたのさ?」
「だって、誰か一緒にきたんじゃなかった、おばさん?」
「どこに? 誰も一緒になんか来やしませんよ。」
「だあれも?」
 少年はベッドの裾の方へ伸びあがって、眼をほそめて、今しがたおばさんのはいって来たドアの方角を眺めたが、それで安心がいったらしい。
「きっと、そんな気がしただけだったのね」と、少年は言った。
 カテリーナ・リヴォーヴナは立ちどまると、甥のベッドの枕もとの屏風《びょうぶ》板に両肘をついた。
 フェージャはおばさんの顔を振り仰いで、なんだかひどく顔色がわるいのねと言った。
 そう図星を指されてカテリーナ・リヴォーヴナは、出まかせに空咳を一つしてみせ、期待のまなこで客間のドアを見やった。そこではただ床板が、みしりと微《かす》かに鳴っただけだった。
「今ね、ぼくの守り神の聖フェオドル・ストラチラートの一代記を、読んでるところなんです。神様に仕えるっていうのは、なるほどあれでこそ本当なんですね。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙然と立っていた。
「ねえおばさん、そこへお掛けにならない、僕もう一ぺん読んであげるから。いいでしょう?」と、甥は甘えかかった。
「ちょっと待って。今すぐ、広間のお灯明を直して来ますからね」と、カテリーナ・リヴォーヴナは答えるなり、いそぎ足で出ていった。
 やがて客間で、じつに微かなひそひそ声がした。だがそのささやきは、何せあたりが森閑としているものだから、子供のさとい耳につたわって来た。
「おばさん! それなあに? そこで誰と、そんなひそひそ声で話してるの?」と、少年は涙ごえで呼びかけた。――「ここへいらっしゃいよ、おばさん。僕こわい。」
 そう、一秒ほどすると少年はまた追っかけて、これはもう殆ど泣き声になって呼んだが、と同時にカテリーナ・リヴォーヴナが客間で『さあ!』と言ったのが聞え、少年はそれを自分に掛けられた声かと思った。
「何がこわいのさ?」とカテリーナ・リヴォーヴナは、決然たる足どりでつかつかとはいって来ながら、なにか嗄れたような声で問いかけて、そのまま客間のドアをわが身で
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