に行ってくるわ、一人ぼっちでいるからね」と、腰をもちあげながら、カテリーナ・リヴォーヴナが言った。
「一人ぼっちですって?」――じろりと上眼づかいに、セルゲイが聞き返した。
「一人ぼっちさ」と、ひそひそ声で彼女は答えて、――「それがどうしたの?」
ふと二人の眼から眼へ、なにか稲妻のようなものがさっと閃めいた。だがもうそれっきり、お互いに一ことも言わなかった。
カテリーナ・リヴォーヴナは下へおりて、人気のない部屋から部屋へと抜けていった。どこもシンとしている。みあかしが静かに燃えている。壁づたいに自分の影が走りまわる。鎧戸のしまった窓は、そろそろ融けはじめて、しずくが筋をひいて流れる。フェージャは相変らず腰かけて、本を読んでいる。カテリーナ・リヴォーヴナの姿を見て、彼はただこう言っただけだった。――
「おばさん、この本をしまって下さいな。それから済みませんが、聖像棚にのっているあの本を取って下さい。」
カテリーナ・リヴォーヴナは甥の頼みをきいて、その本を取ってやった。
「そろそろ寝たらどう、フェージャ?」
「いいえ、おばさん、僕おばあさんの帰るまで起きています。」
「起きていたって仕様がないじゃないの?」
「だって、晩祷の聖パンを頂いて来てくれるって、約束したんですもの。」
カテリーナ・リヴォーヴナは急に蒼い顔をした。腹のなかのわが子が、みぞおちの辺で初めてぶるん[#「ぶるん」に傍点]と動いて、寒気が胸のなかを突っぱしったのである。暫くそのまま部屋のまん中にたたずんでいたが、やがて冷たくなった両手をこすりこすり出ていった。
「さあ!」――彼女はそっと自分の寝室へあがると、そうささやいた。セルゲイは相変らずストーヴの前の、元の場所に立っていたのである。
「え?」――聞こえるか聞こえないくらいの声でセルゲイは問い返し、そこで唾にむせた。
「一人ぼっちでいるのさ。」
セルゲイはぴくりと眉をうごかし、苦しそうな息づかいになった。
「さ行こう」――ぱっと扉の方へ向きなおって、カテリーナ・リヴォーヴナが言った。
セルゲイは手ばやく長靴をぬぐと、こうたずねた。――
「何を持っていく?」
「いらない」――気音だけでカテリーナ・リヴォーヴナは答えると、男の手を引いてそっと案内していった。
※[#ローマ数字11、1−13−31]
病気の少年は、三たびカテリー
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