は、すっわり目をまわしてしまった。彼としては、こうも手っとり早く大詰が来ようとは、夢にも思いもうけぬことだったのだ。自分の身に最初の暴力が加えられた瞬間、その下手人がげんざいのわが妻であればあるだけ、さてはこの女め、このおれから自由になろうためなら、手段をえらばぬ必死の覚悟だな、と直覚して、これは容易ならんことになったわいと、咄嗟に感じたのであった。ジノーヴィー・ボリースィチは、そうした一切のことに、倒れる刹那ぱっと思いあたったのだったが、さりとて悲鳴ひとつあげなかったのは、声を立てたところでどうせ誰の耳にもとどきはすまい、みすみす断末魔を早めるのが落ちだと、見当がついたからである。彼は無言のまま、一わたりあたりを見まわすと、その両眼に怨むような咎めるような苦しみ悶えるような色をうかべ、現に自分の喉もとを細っそりした指でぐいぐい絞めつけている妻の顔を、じいっと見つめた。
 ジノーヴィー・ボリースィチは、べつに抵抗しなかった。両の腕は、ぎゅっと握りこぶしを固めたまま、床べたに伸びきって、時どき引っつるようにぴくついていた。片っぽは全く自由だったが、のこる一本はカテリーナ・リヴォーヴナの膝がしらで、床へ押しつけられていた。
 「ちょいと押えていておくれな」――彼女は平気な声でセルゲイにそう囁くと、言葉なかばでまた良人の方へ向きなおった。
 セルゲイは旦那のうえに馬乗りになると、もろ膝で相手の腕をおさえつけ、むんずとその手を、カテリーナ・リヴォーヴナの両手の下から相手の喉へかけようとしたが、とたんに思わずギャッと悲鳴をあげてしまった。じぶんの女房を寝とった男の姿が目にはいると、血なまぐさい復讐の一念が、ジノーヴィー・ボリースィチの体内に残っていた力のありたけを、一挙にふるい立たせたのである。彼は猛烈な勢いで身をもがくと、セルゲイの膝の下敷きになっている両手を引き抜き、それでセルゲイの黒い渦まき髪をひっつかみざま、まるで獣みたいに彼の喉もとへ咬みついた。が、その瞬間、ジノーヴィー・ボリースィチは一二度呻いて、がくりと頭を落とした。
 カテリーナ・リヴォーヴナはまっ蒼な顔をして、ほとんど息も通わぬ有様で、良人と情夫の頭のうえに立ちすくんでいた。その右手には、ずしりと重い鉄の燭台が、重たい方を下に向けて、あたまの方で握られていた。ジノーヴィー・ボリースィチのこめかみから頬へ、一
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