すじの細い紐をなして、鮮血がながれていた。
「坊さんを……」とジノーヴィー・ボリースィチは、自分のうえに馬乗りになっているセルゲイから、さも厭らしそうに頭をできるだけ遠方にそむけながら、鈍い声でうめいた。――「ざんげが、したい」――髪の毛の下かげで次第に濃くなってゆく生温《なまぬる》い血を、横目で見やりながら、そろそろ顫えのつきはじめた彼は、一そうかすかな声で言った。
「大丈夫よ、そんなことしないだって」とカテリーナ・リヴォーヴナはささやいた。
「さあさ、いつまでこの人のお相手をしてたって始まらないよ」と、今度はセルゲイに向って――「もっとぎゅっと、その喉をお締めな。」
 ジノーヴィー・ボリースィチは、ぜいぜい声《ごえ》をもらしはじめた。
 カテリーナ・リヴォーヴナはしゃがみ込むと、良人の喉にかかっているセルゲイの両手を、じぶんのもろ手でぐいと押しつけ、耳をその胸に当てがった。沈黙の五分間がすぎると、彼女は身をおこしてこう言った、――「さあよし、往生したらしいわ。」
 セルゲイも立ちあがって、ふうっと息をついた。ジノーヴィー・ボリースィチは死んで横たわっていた。喉は締めあげられ、こめかみは裂けていた。頭のしたには、左手にあたって、小さな血のしみが溜っていた。しかし、傷口はべっとり髪の毛がはりついて固まっていたので、血はもう流れてはいなかった。
 セルゲイはジノーヴィー・ボリースィチを、穴倉へかついで行った。それは当のセルゲイ自身がついこのあいだ、今は亡きボリース・チモフェーイチの手で閉じこめられた覚えのあるあの石倉の、地下に設けられたものであった。そこへ抛りこむと、彼は屋根部屋にとって返した。そのまにカテリーナ・リヴォーヴナは、例の更紗木綿のブラウスの袖をたくしあげ、裾を高々とはしょりあげて、ジノーヴィー・ボリースィチがおのれの寝間の床《ゆか》にのこしていった血のしみを、束子《たわし》にシャボンをつけて入念に洗いおとすのだった。サモヴァルのなかの湯は、まだ冷めてはいなかった。その湯で淹《い》れた毒入りの茶を、一杯また一杯と重ねながら、つい今しがたまでジノーヴィー・ボリースィチは、どうにか一家のあるじの沽券《こけん》をみずから慰めていたものだったが、とにかくその湯のあるおかげで、血のしみは跡形もなくきれいに落ちてしまったのである。
 それからカテリーナ・リヴォーヴナは
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