いけれど」と、意味ありげな流し目を一つくれて、言葉をつづけた、――「そうは問屋がおろさないことよ。あたしはただ、あんたのその威し文句をうかがう先から、あんたに対してこうしようとちゃんと胸のなかで決めていたことを、そのまま実行するだけのことですわ。」
「そりゃなんのことだ? ええ出て失せろ!」と、ジノーヴィー・ボリースィチはセルゲイをどなりつけた。
「おっとどっこい!」と、カテリーナ・リヴォーヴナがおひゃらかした。
 彼女はすばやくドアの錠をおろすと、鍵をポケットへ押しこみ、例の更紗のブラウス姿で、またもやどしりとベッドにおみこしを据えた。
「ちょいと、セリョージェチカ、こっちへおいでな。ねえ、おいでったら、おまえ」と、彼女は番頭を手まねきした。
 セルゲイは、渦まき髪をさっと一振りゆすりあげると、勇敢にずかりとおかみさんのそばへ腰をおろした。
「やれやれ! あさましいわい! 一体なんたることだ? 犬畜生じゃあるまいし、それは一たい何たるざまだ!」と、満面さっと紫色に変じて、肘かけ椅子から立ちがりながら、ジノーヴィー・ボリースィチはわめき立てた。
「どう? お気に召さなくって? まあとっくり見て頂戴な、とっくりとね。これがあたしの|若い鷹《いいひと》なのよ、どう、いい男振りでしょ!」
 カテリーナ・リヴォーヴナは大声で笑いだすと、良人の目の前でセルゲイに熱い接吻をあたえた。
 とその瞬間、彼女の頬っぺたにがあんと一発、横びんたが飛んだかと思うと、ジノーヴィー・ボリースィチはあけっぱなしの小窓めがけて突進した。

      ※[#ローマ数字8、1−13−28]

「おやまあ、おいでなすったわね!……ところがどっこい、そうは行きませんてことさ。どうせそんなことだろうと思ってたよ!」と、カテリーナ・リヴォーヴナは金切り声をたてた。――「さあ、こうなったらもう山は見えたわ……お互い、泣こうが笑おうが……」
 ぱっと一振り、彼女はセルゲイを突きのけると、すばやく良人に追いすがって、ジノーヴィー・ボリースィチが窓へ跳びあがるその前に、うしろからその喉もとへ自分のほっそりした指をからませたかと思うと、忽ち相手のからだを、しめった麻束よろしくの体《てい》で、床べたへ引っくり返した。
 どさりと地ひびきを立てて倒れる拍子に、うしろ頭をいやっとこさ床にぶつけたジノーヴィー・ボリースィチ
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