ィチの奴は、さらりと秋の捨て扇だ。すごすご裏庭へ退散して、胴間声の歌の仲間入りでもして、納戸の軒から指をくわえて、カテリーナ・イリヴォーヴナの寝間に蝋燭がぽっかりともってるところだの、おかみさんがふかふかした蒲団を叩いて膨らましてるところだの、天下晴れての御亭主のジノーヴィー・ボリースィチとよろしくお床入りの有様だのを、あっけらかんと眺めていなけりゃならないんだ。」
「桑ばら桑ばら!」と、カテリーナ・リヴォーヴナは陽気に声を引っぱって、可愛らしい手を振った。
「なんで桑ばら桑ばらなものかね! 憚りながらあっしだって、あんたという人が所詮そうならずにいるものでないことぐらい、ちゃんと心得ていますさ。だがね、カテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしだっても、おいらなりに心もあれば情けもあるんだ。そいで自分がどんなに苦しいだろうかってことも、ちゃんと見えずにはいないというわけでさあ。」
「もう沢山。そんな話、もうよして。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、いかにもセルゲイらしい嫉妬の表現を耳にするのが愉快でならず、大声で笑いだしながら、またもや接吻の雨をふらせはじめた。
「くどいようだがね」とセルゲイは、肩さきまでむき出しのカテリーナ・リヴォーヴナの両の腕から、そっと自分の頭を抜けださせながら、なおも言葉をつづけた、――「くどいようだけどね、もう一つ、ついでに聞いておいて貰いたい事があるんだ。ほかでもないがそりゃあ、こうしてあっしがあれやこれやと、くよくよ男らしくもなく、同じことを一ぺんどころか十ぺんも思案したりするのは、一つにはあっしの境涯が、この通りの賤しい身分だというせいもあるんでさ。仮りにもしあっしが、いわばまああんたと対等の身分でさ、何かこう旦那とか商人とかいわれる身の上だったら、それこそもうあっしとあんたとは、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしの息のある限り離れっこはないんだがなあ。ところが実際は、あんたもよく考えておくんなさいよ、あんたの前へ出ちゃあ、あっしという人間は、いったい何者ですかい? 今にもあんたが、その白い可愛らしい両手をほかの男の手にとられて、寝間へ連れていかれたにしたところで、あっしは何もかもこの胸一つに、じっとこらえていなけりゃならないんだ。いやそればかりか、その無念さのおかげで、ひょっとすると一生涯、われながら見さげ果てた腰抜け野郎だと、自分
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