石倉に放ったらかしておいた。素焼きの壺に水をちょっぴり入れて当てがい、大きな錠前をがちゃりとおろすと、すぐさま息子を迎えに人を出した。
ところが昔ながらのわがロシヤの国では、村道づたいに二十五里も馬車を走らせるとなると、きょう日《び》だってそう手っとり早くはいかない。でカテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイなしでは最早これ以上一刻のがまんもならないところまで来てしまった。彼女のうちなる女性は、一たん目ざめたとなると忽ち一人前に伸び育ってしまい、身も世もあらぬその思いつめようは、いくらわが身のこととはいえ、とうてい宥めもすかしもできる段ではなかったのだ。彼女はセルゲイの居場所を嗅ぎつけると、鉄の扉ごしに男とことばをかわし、すぐその足で鍵をさがしにかかった。それもいきなり、『おとっつぁん、セルゲイをゆるしてやって』と、舅にぶつかって行ったものである。
聞くなり老人は、唇までまっ蒼になってしまった。よしんば道ならぬことを今度しでかしたとはいえ、それまで永の月日を従順な嫁女であった女が、よもやそんなあられもない鉄面皮さを発揮しようとは、思いもよらないことだったのだ。
「よくもいけ図々しく、そんなことが言えたもんだな」と、彼はカテリーナ・リヴォーヴナを面罵しはじめた。
「ゆるしてやって」と、こちらはいつかなひるまずに、「良心にかけて、これだけは誓います、――わたしたちの間には、うしろ暗いことはまだこれっぽっちもなかったんです。」
「うしろ暗いことは」と老人、「なかっただと!――そういう舌のさきから、ぎりぎり歯がみをしよるわい。――じゃあ一つお尋ね申すが、いったいお前たちは毎晩毎晩、あそこで何をしていたというんだ? 亭主の枕の詰物を、打ち直しでもしてやってたのかい?」
だがこっちは、ゆるしてやって、ゆるしてやって、の一点ばりだった。
「よおし、そういうことなら」と、ボリース・チモフェーイチは言った、――「こうしようじゃないか。おっつけ亭主が帰って来ようが、その上でわしら二人の四本の手でもって、お前さんという天晴れ貞女を、馬小屋で思いっきり叩きすえさせて貰おうじゃないか。一方あっちのやくざ野郎は、あすにも早速、牢へ送りつけるとしようて。」
そうボリース・チモフェーイチは、一応ほぞを固めたのだったが、ただその決心は、残念ながら向うからはずれた。
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