枕のうえには渦をまくみどりの黒髪がみだれ放題、という体たらくだった。だがしかし、道はかならずしも常に坦々たる街道ばかりとは限らない。川どめもあれば崖くずれもある。
 ある夜ボリース・チモフェーイチは寝そびれてしまった。そこで老人は、まだら染めの更紗のルバーシカ姿で、森閑とした家のなかを、あてもなくうろついた。窓へ寄って外をながめる。また次の窓へ寄ってみる。そのうち、ふと見ると、嫁女の部屋の窓の下を柱づたいに、こっそりあたりを憚りながら、若い衆セルゲイの赤シャツがおりてくる。さてこそ珍事! ボリース・チモフェーイチはおもてへ躍りだしざま、若い衆の両足をしっかと捉まえた。相手はくるりと振りむいて、力まかせ横びんたを喰らわそうと身がまえたが、荒だてては事面倒と思いかえした。
「きりきり白状するんだ」と、ボリース・チモフェーイチは言った、「てめえ、どこへ行ってきくさった、ここな大ぬすっとめが?」
「どこさ行ってきようが来まいが」と、セルゲイはいけしゃあしゃあと、「旦那、あっしはもうそこにいやしませんや、ねえボリース・チモフェーイチ」と切って返す。
「嫁女のところに泊りおったのか?」
「さあねえ、旦那。泊った場所なら、それもあっしは確かに知っちゃおりますがね。ところで、これは念のため申しあげときますがね、ボリース・チモフェーイチ、いいですかい、――一たん引っくら返った水は、元へ戻りゃしませんとさ。まあ一つ、先祖代々のノレンに疵のつかないように、せいぜい御用心を願いやすぜ。さてそこで、あっしをどうなさるおつもりかね? どうしたらおなかの虫が収まるんですかい?」
「ええ、この毒へびめが、鞭を五百も喰らわせてやろうわい」とボリース・チモフェーイチ。
「こっちの越度《おちど》だ――どうなりと存分に願いやしょう」と、若者はあっさり折れて出て、「さあ、どこへなりとお伴しますぜ。そして好きなだけ、あっしの血をすすりなさるがいいさ。」
 ボリース・チモフェーイチは、セルゲイを自分の小さな石倉へ引っぱっていって、革むちでもって、自分がへとへとになるまで打ちすえた。セルゲイは呻きごえ一つ立てなかったが、その代り自分のルバーシカの片袖を半分ほど、歯でぼろぼろに咬みしだいてしまった。
 ずく鉄みたいにまっ赤に腫れあがった背中が、なんとか元どおりに直るまでのあいだ、ボリース・チモフェーイチはセルゲイに
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