とカテリーナ・リヴォーヴナはつまずきながら、しかも足もとを見やりもせずに、ただもう思案にふけるのだった。
だがこっちから先に折れて出るのは、今となってはせんだってより以上に、自尊心がゆるさない。そうこうするうちに、セルゲイのソネートカに対するじゃらつきようは益※[#二の字点、1−2−22]執拗になって、もはや衆目のみるところ、ウナギのようにぬらりくらりするばかりで手に入らない難攻不落のソネートカも、とみに軟化の色を見せはじめた。
「ねえ、お前さんいつぞやあたしのことを怨んだっけが」と、フィオーナがカテリーナ・リヴォーヴナに言った。――「一たいなんの悪い事をあたしがしたかね? あたしのことなんか、あれっきりもうさばさばしたもんだけど、今度のソネートカにゃ油断しないがいいよ。」
『くだらない自尊心なんか鬼に食われちまえ。今日こそ是が非でも仲直りしなけりゃあ』とカテリーナ・リヴォーヴナは決心して、なんとか巧い仲直りのきっかけはないものだろうかと、そればかり思いつめるのだった。
この難局から救いだしてくれたのは、意外にもセルゲイその人だった。
「イリヴォーヴナ!」と、彼は小休止のとき彼女を呼んだ。――「今夜ちょいと来てくれないか。話があるんだ。」
カテリーナ・リヴォーヴナは黙っていた。
「おやおや、まだ怒っているのかい――じゃ来ないのかい?」
カテリーナ・リヴォーヴナはこれにも返事をしなかった。
だがセルゲイのみならず、その日カテリーナ・リヴォーヴナの様子を見ていた連中の目には、そろそろ営舎が近くなりだすとともに彼女がしきりに古参の下士につきまといはじめて、とうとうしまいに、娑婆の人びとの投げ銭を拾いあつめた十七銭を、その下士に握らせるのが見てとれた。
「また溜ったらもう十銭あげるわよ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは一生けん命だ。
下士は袖口の折返しに小銭をしまって、
「よしよし」と言った。
セルゲイは、この談判がめでたく終了するのを見とどけると、咳ばらいをして、ソネートカに目くばせした。
「ああ、おれの大事なカテリーナ・リヴォーヴナ!」と彼は、営舎の昇り口のところで彼女を抱きしめながら言った。――「なあみんな、なんぼ世界が広くたって、この女に及ぶようなのは一人もいないぞ。」
カテリーナ・リヴォーヴナは、嬉しさのあまり赤くなったり息をはずませたりだった。
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