ってくれればいい、そして残る片手が自分のヒステリックに波うつ肩をじっと抱きしめてくれればいいと、われにもあらず心に念ずるのだった。
「まあ、とにかくさ、あの頭の布だけは返しておくれよ」とあくる朝、兵隊の女房のフィオーナが彼女を揺りおこした。
「おや、じゃあお前さんだったの?……」
「後生だから返しておくれよ。」
「けどね、なんだって仲を裂くような真似をするんだい?」
「仲を裂くなんて、とんでもないよ。今さらあたしに、好いた惚れたの沙汰があるもんかね! 尖んがらかることは、ちっともないさ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナはちょっと思案したが、やがて枕の下から昨夜ひっぺがした頭巾をとり出すと、ぽいとそれをフィオーナに投げてやり、壁の方へ寝返りをうった。
 それで気が軽くなった。
「チェッ」と彼女はひとりごちた、――「あんな盥《たらい》に目鼻みたいな女のことで焼餅をやくなんてさ? さっさと失せやがれ! 自分をあんな奴と並べて考えるさえ汚らわしいよ。」
「ねえ、カテリーナ・イリヴォーヴナ、いいですかい」と、あくる日の道中でセルゲイが話しかけた、――「あっしは何もお前さんに対してジノーヴィー・ボリースィチじゃねえんだし、またお前さんにしたところで、今じゃもう大のれんの内儀さんじゃないんだ。そこんとこをよく考えてな、後生だからあまりつんつんして貰いますまいぜ。いくら角を生やしたって、ここじゃもう売物にゃならねえからなあ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナはそれには何とも答えず、その後一週間ほどは、セルゲイと言葉もかわさず眼も見かわさず、ただその傍を歩いていった。そこまで面子《メンツ》をつぶされながら、それでも彼女は気位だけは持ちつづけてセルゲイとの間にはじめて持ちあがったこの痴話げんかに、あえてこっちから和解の第一歩を踏みだす気にはなれなかったのだ。
 さて、そんなふうにカテリーナ・リヴォーヴナが、セルゲイに腹を立てているうちに、セルゲイは例の色白のソネートカを相手に、むだ口を叩いたりふざけたりしはじめた。『おおわが女王さま』とか何とか言って最敬礼するかと思えば、にやにや笑って見せたり、出会いがしらにぐいと抱きしめようと隙をうかがったりする。カテリーナ・リヴォーヴナはそんな様子を見るにつけ、胸の中はますます煮えくり返るばかりだった。
「そろそろ仲直りをした方がいいのじゃあるまいか?」
前へ 次へ
全62ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング