、囚人たちの脇腹でつるつるに磨きのかかった板どこから素早くとび起き、外套を肩に羽織って前に立っている案内人をつついた。
カテリーナ・リヴォーヴナは廊下を歩いて行きながら、ただ一箇所ほの暗い灯明皿の明りがにぶく照らしている場所で、二タ組だか三組だかの連中に突きあたったが、遠見にはそこに人がいる萌しなんぞさっぱり見えないのだった。カテリーナ・リヴォーヴナが男囚の監房の前に通りかかると、戸についている覗き窓から、忍び笑いの声がきこえた。
「ええ、やっていくさる」と、カテリーナ・リヴォーヴナの案内人は腹だたしげに呟いて彼女の肩をつかむと、隅の方へぐいと一突きし、そのまま向うへ行ってしまった。
カテリーナ・リヴォーヴナが手さぐりすると、片手には外套とあご鬚がさわった。もう一方の手には火照った女の顔がさわった。
「誰だ?」と、セルゲイが小声できいた。
「おや、お前さん何してるの? 誰が相手なの?」
カテリーナ・リヴォーヴナは暗がりの中で恋仇の頭巾を引っぱがした。向うはするりと横へ抜けると、一目散に逃げだしたが、廊下の中途で誰かにぶつかって、でんぐり返しを打ったらしい。
男囚の監房からどっと笑い声がおこった。
「わるもの!」とカテリーナ・リヴォーヴナはささやいて、男の新しい女の頭から引っぱがしたばかりの布の端で、セルゲイの顔を打った。
セルゲイは手を振り上げようとした。けれどカテリーナ・リヴォーヴナはひらりと身がるに廊下を駈け抜けて、じぶんの監房の戸に取りついた。男囚部屋の笑い声は、彼女の後ろからまたもやどっと揚ったが、それがあんまり高かったので、ちょうど灯明皿の前に無念無想のていで佇んで、じぶんの長靴の先っぽに唾を吐きかけていた番兵が、思わず首をもたげて、
「シーッ!」と叱咤したほどだった。
カテリーナ・リヴォーヴナは黙って横になると、そのまま朝までじっとしていた。彼女は自分に向って、『もうあの人には愛想がつきたわ』と言って聞かせたかったが、そのじつ内心では可愛さ恋しさが一そうつのる思いだったのだ。あの人の手のひらがあいつ[#「あいつ」に傍点]の首の下のあたりでわなわなと顫えていた、のこる片手はあいつの火照った肩を抱きしめていた……そんな光景が、追っても追っても目蓋を去らなかった。
因果な女はとうとう泣きだして、ああ今この時こそあの手のひらが自分の首の下のへんにあ
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