《みな》してよいであろうか。とはいえ、彼の素直な創造精神があらゆるマナリズム、あらゆる公式主義の敵であったことを思えば、右のような分析法を彼の作品表の全面に及ぼすことは、当然つつしまなければならないであろう。それのみならず、右のような分析の適用し得る範囲についてすら、チェーホフがあからさまな意識をもって例えばソナータ形式を採択したなどと想像することは、恐らく心ない穿鑿沙汰《せんさくざた》に過ぎないであろう。様式論の興味はそのようなところにあってはならない。私達にとって何よりも興味ぶかいのは、右のような分析が、この文章の冒頭に述べた「聖チェーホフの雰囲気」を時として押しひらいて、冥々《めいめい》のうちに作家チェーホフを支え導いていた端倪《たんげい》すべからざる芸術的|叡知《えいち》の存在を明かすとともに、この叡智の発動形式の一端に私達を触れさせて呉《く》れることである。もしもチェーホフの不滅が約束されているとすれば、それはこの叡智の力と形式のほかのどんな場所でもあり得ない。蓋《けだ》し一たん縹渺《ひょうびょう》たる音楽の世界へ放たれて揺蕩《ようとう》する彼のリアリズム精神は、再び地上に定
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