言う場合には、あの『可愛《かわい》い女《ひと》』や『唄うたい』や『睡《ねむ》い』や、まずそうした作品を子守歌のように思い浮べるのであろう。そしてそれもよいのだ。しかしまた、そうした気分的なものの実体の捉えがたさもまた格別である。
 ここに唯一つたしかなことは、よく人の言う「チェーホフ的」な感じというものが、既に時の波に洗われきった聖チェーホフの雰囲気であることだ。それはエーテルのように私達の身のほとりに漂《ただよ》う。それは捕えがたい。……このニュアンスを、まんまと捕えて自家薬籠中のものとしたマンスフィールドの心には、非常に聡明《そうめい》な女性が住んでいたのに違いない。チェーホフの亜流が誘われがちの湿っぽい感傷から、彼女が全く免《まぬ》かれているのは、強《あなが》ち緯度の違いや、ましてや時代の違いからばかりではあるまい。何故《なぜ》ならそこに見られるものは単なる醇化《じゅんか》作用ではなく、いわば強い昇華作用が働いているからだ。これが影響の最も望ましい形であることは言うまでもない。マンスフィールドには何か私録のようなもの(たしか日記だったと思うが)があって、それが発表されているように
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