うに、生まれてからこの日まで何も縞の着物一つで押し通したわけでもないのさ。わたしだってわたしなりに、ほかの暮らしを見も聞きもしたっけが、桑原桑原、今さら思い出したところで始まらないよ。ただあんたに言っておきたいのはね、こうして牛小屋なんぞへ送られて来ても、決して自棄《やけ》なんか起してはいけないよ。送られて来た方が結句ましなのさ。ただね、この怖ろしい水筒にだけは気をつけなされよ……」
 そう言うと、首に巻いたプラトークの中から、白っぽいガラスの小壜を出して見せてくれました。
 わたしが、
「それは何ですか?」と聞くと、
 婆さんは、
「これがその怖ろしい水筒なのよ。なかには憂さを忘れる毒がはいっているのさ」と答えます。
 わたしがそこで、
「わたしにもその憂さを忘れる毒を下さい。何もかも忘れてしまいたいのです」と言うと、
 婆さんが言うには、――
「飲むんじゃないよ、これは火酒《ヴォートカ》なのさ。いつぞやわたしは、自分で自分の締めくくりがつかなくなって、飲んじまったのよ……親切な人がくれたものでね。……今じゃもう我慢がならない――飲まずにゃいられなくなっちまったのさ。だがね、お前さん
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