、とんと忘れましたわい。」
 そう言いながら、残る片手でしきりにポケットの上を撫でるのです。
 家令はこの謎にも感づいて、鍵を坊さんのポケットから取りだすと、わたしの戸をあけました。
「出てくるんだ」と言います、――「この片割れめが。こうなりゃ相手の男は、自分から名乗って出ようさ。」
 いかにもアルカーシャは、ぬっと姿を現わしました。坊さんの掛けぶとんを床《ゆか》へかなぐり捨てて、すっくとそこへ立ったのです。
「いや、こうなっちゃもう」と言うのです、――「万事おしまいだ。お前さんたちの勝だよ。さっさとおれを連れてって、お仕置きになり何になりするがいいや。だがね、この女にゃ何一つ罪はねえぜ。おれが無理矢理かどわかしたんだからな。」
 そして坊さんの方へくるりと向き直ると、したことはたった一つ、その顔へペッと唾を吐きかけただけでした。
 坊さんが言うには、――
「いやどうも皆さん、これは一たい何事ですかな。聖職と信仰とにたいする何たる侮辱でしょうかな? これは一つ伯爵閣下に御報告ねがいたいものですな。」
 家令はそれに答えて、――
「いや、案ずることはない。それもこれも、こいつの身に報いる
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