は飲まずにいられるうちは飲まないがいいよ。まあわたしがこうして、ちびりちびりやるといって、咎めだてはしないでおくれね――わたしは辛くってならないんだからね。けれどお前さんには、まだまだこの世に慰めがあろうというものさ。だってあの人は、神様のお計らいで、魔手をのがれたんだものねえ!……」
 わたしは思わず、「死んだのだ!」と叫ぶと、とっさに自分の髪の毛をつかみましたが、見るとその髪が、わたしの髪の毛ではない、――白髪なんです。……なんてことだろう!
 すると婆さんが、こう言いました、――
「しっかりおし、しっかりおし。お前さんの髪は、あの小部屋で、首に巻きつけた垂髪《おさげ》を人が解いてくれたその時から、もうまっ白だったんだよ。けれどあの人は生きてるよ。しかももう、責めも苛なみもされない境涯なんだよ。伯爵はあの人に、かいびゃく以来の恩典をほどこしたんだよ、――その話はその話で、夜が更けてからすっかりして上げるがね、まあも少し嘗めさせておくれよ。もうちっとやらないことにゃ……胸《ここ》んところが焼けつくようで、とんとやりきれないのさ。」
 そう言いながら、ちびりちびりやるうちに、ぐっすり婆さんは寝てしまいました。
 やがて夜が更けて、みんな寝しずまった頃、ドロシーダ小母さんはこっそり起きあがって、蝋燭もとぼさずに枕もとへ寄って来ました。見るとまたもや例の水筒を一ぱいやってから、またそれを匿すと、小声でわたしに問いかけるのです、――
「気の毒な娘さん、寝てるかい?」
 わたしが、
「起きてますわ」と答えます。
 そこで小母さんが藁床のそばへやって来て、話してくれたところによると、伯爵は一通りの窮命がすむと、アルカージイを呼び寄せて、こう申し渡したのだそうです、――
「本来ならお前は、兼々わしが言っておいた通りの目に逢わねばならんところなのだが、日ごろの寵愛に免じて、今度だけは特に寛大な処置をしてとらせる。わしはお前を、身代金なしで明日《あす》兵隊に出してやる。しかもお前が、れっきとした伯爵でもあり士族でもあるあの弟のやつのピストルに、びくともしなかったあの剛胆さに賞でて、名誉ある前途を開いてやることにしよう。わしとしては、お前が示した天晴れな根性骨より低い地位に、お前をつけたいとは思わんのだ。わしは手紙を書いて、お前をすぐさま戦場へ出すように言ってやろう。それも一兵卒としてではなくて、聯隊の軍曹として出陣するようにな。まあ立派にお前の勇気をふるって見せるがいい。この上はもうお前はわしの家来ではなくて、あっぱれ帝《みかど》の臣下なのだぞ。」
「だからね」と、縞服の婆さんは言うのでした、――「今じゃあの人は安楽になって、びくびくするものは何一つないのさ。勝手にならないことは只一つ、戦死ということだけで、ごぜん様の御意なんかもうありはしないのさ。」
 わたしも成程その通りだと思って、それから三年の間というもの、毎晩毎晩アルカージイ・イリイーチが戦さをしている有様を、ただそれだけを夢に見つづけました。
 そうして三年の年月は流れましたが、そのあいだじゅうわたしは神様の御加護で、二度とふたたび芝居へは戻らずに済み、引続きその仔牛小屋のなかで、ドロシーダ小母さんの組の者として暮らしたのです。それは実にいい暮らしでした。わたしはこの小母さんを気の毒に思って、夜更けなど小母さんがあんまり酔っぱらっていないような時には、その思い出話をきくのが好きでしたからね。小母さんは未だに、先代の伯爵が斬り殺された時のことを覚えていました。発頭人は従僕|頭《がしら》でしたが、――とにかくみんなもうこのうえ一刻も、没義道な主人の乱行が我慢ならなくなったのです。とはいえわたしは、まだ一滴の酒も飲み習わず、ドロシーダ小母さんのため色んな用事をいそいそと勤めたものでした。仔牛たちがまるでわが子のような気がしたのです。仔牛たちにすっかり情が移ってしまって、その中のどれかが肉が乗りきって、食卓にのぼせられるため屠殺場へ曳かれて行く時など、思わずその後姿に十字を切って、三日間も泣けて泣けてならないくらいでした。わたしはもう舞台に立てる身ではありませんでした。脚がぐらぐらして、よく歩けなくなっていたからです。以前はわたしの足どりは世にも軽やかなものでしたが、あの日アルカージイが気絶したわたしを寒気の中へ連れ出してからというもの、きっと脚が冷えこんだのでしょう、爪先にすっかり力が失せて、とても踊りどころの段ではありませんでした。結句わたしも、ドロシーダと同じような縞服の女になって行ったのです。そんな鬱陶しいその日その日が、その先どこまで続くものやら見当もつかなかったのですが、そのうち突然、ある日の夕方じぶんの小屋にいた時のことです、――日が沈みかけていましたが、わたしが窓際で紡ぎ車
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