の下から怖ろしい呻き声が聞えて来たのでした。
 芝居小屋の間どりは、こんなふうになっていました。――その木造の建物のなかで、わたしたち女の子は二階に住処《すみか》をあてがわれ、すぐその下は天井の高い大きな部屋で、わたしたちの歌や踊りの稽古場になっていたのですが、そこの物音は上の部屋へ筒抜けに聞えるのでした。さだめし地獄の大王サタンが入れ知恵したものに違いありません――無慈悲非道なお仕置き役たちがあのアルカーシャを責めさいなむのが、ほかならぬわたしの部屋の真下なのですからね。……
 あれはあの人が責められているのだと、とっさに感づいたわたしは、むっくり跳ね起きざま……現場へ駈けつけようと……ドアに体当りをしましたが……しっかり錠がおりています。……どうしようというのか、自分でも分りません……ばったり倒れると、床べたでは尚更よく聞えます。しかも小刀一挺、釘一本――胸を突こうにも喉を突こうにも、死ぬ手だては何一つないのです。わたしは自分の垂髪《おさげ》をぐいと握って、それで縊れようとしました。……喉へ捲きつけて、ぐいぐい締めあげてゆくと、だんだん耳に音が聞えるだけになって、眼のなかにぐるぐる輪が幾つも※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りだし、やがて気が遠くなってしまいました。……
 やがてわたしがそろそろ正気に返りはじめたのは、見たこともない場所で、広々と明るい小屋のなかでした。……おまけにそこには仔牛がいるのです……なん匹もなん匹も、十匹あまりもいるのです。――それがみんな可愛らしい仔牛でね、そばへ寄って来ては、ひやりとする唇で手をなめるんですよ。きっとお母さんのおっぱいでも吸う気でいるのでしょう。……実はわたしが目を覚ましたのも、くすぐったくなったからなのでした。……あたりをぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、おやどこかしらと思いました。見ていると、女の人が一人はいって来ました。脊の高い中婆さんで、縞のはいった空色の麻服にすっぽり身をくるみ、おなじく縞入りの麻のプラトークを頭にかぶって、親切そうな顔をしています。
 女の人は、わたしが正気づいたのを見てとると、慰めの言葉をかけてくれたり、今わたしのいるのはやはり伯爵のお屋敷うちにある仔牛小屋だと、教えてくれたりしました。……『それはね、ほらあの辺にあったのですよ』と、リュボーフィ・オニーシモヴナはここで註訳を入れて、半ば崩れ落ちている灰色の塀の一ばん向うの隅の方角を、片手でさし示すのだった。

      ※[#ローマ数字15、189−10]

 彼女が牛小屋なんかに入れられたのは、ひょっとすると気違いみたいなものになったのではあるまいかと疑われたからだった。そんなふうに畜生じみて来た人間は、牛小屋へ入れて試して見ることになっていた。というのは、牛飼いというものは元来が年の入った、物に動じない連中なので、精神病の「鑑定」には打ってつけだとされていたからである。
 リュボーフィ・オニーシモヴナが正気に返った小屋を受持っていた縞服の婆さんは、とても親切な女で、ドロシーダという名前だった。
 ――そのお婆さんは、夕方の身仕舞いをしてしまうとね(と、乳母は物語をつづけた――)、自分で新しいカラス麦の藁でもって、わたしの寝床を作ってくれました。それをまるで羽根ぶとんのように、ふんわり敷いてくれると、こんなことを言いだしたのです。――
「なあ娘さんや、今は何も包みかくさず、あんたに話してあげようね。あんたのことはまああんたのこととしてさ、このわたしだってやっぱりお前さんと同じように、生まれてからこの日まで何も縞の着物一つで押し通したわけでもないのさ。わたしだってわたしなりに、ほかの暮らしを見も聞きもしたっけが、桑原桑原、今さら思い出したところで始まらないよ。ただあんたに言っておきたいのはね、こうして牛小屋なんぞへ送られて来ても、決して自棄《やけ》なんか起してはいけないよ。送られて来た方が結句ましなのさ。ただね、この怖ろしい水筒にだけは気をつけなされよ……」
 そう言うと、首に巻いたプラトークの中から、白っぽいガラスの小壜を出して見せてくれました。
 わたしが、
「それは何ですか?」と聞くと、
 婆さんは、
「これがその怖ろしい水筒なのよ。なかには憂さを忘れる毒がはいっているのさ」と答えます。
 わたしがそこで、
「わたしにもその憂さを忘れる毒を下さい。何もかも忘れてしまいたいのです」と言うと、
 婆さんが言うには、――
「飲むんじゃないよ、これは火酒《ヴォートカ》なのさ。いつぞやわたしは、自分で自分の締めくくりがつかなくなって、飲んじまったのよ……親切な人がくれたものでね。……今じゃもう我慢がならない――飲まずにゃいられなくなっちまったのさ。だがね、お前さん
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