ちがいじみた命知らずな行いも、何ごとをしでかしたかということも、ちっとも知らずにいました。けれども当のアルカージイは、もとより所詮のがれる途はないと覚悟していましたから、やがて弟ぎみがじいっとその顔を見つめ、うちの伯爵の耳に何ごとかぼそぼ囁いたのを見ると、まっ蒼な顔になったのでした。わたしはとても耳敏い性分だもので、その囁きが聞きとれました、――
「弟のよしみで忠告しますがね、あの男に剃刀を当てさせる時は気をつけなさいよ。」
 うちの伯爵は静かににやりと笑っただけでした。
 当のアルカーシャも何か小耳にはさんだものと見えます。というのは、やがてわたしの最後の出《で》のため公爵夫人の顔を作りはじめた時、平生のあの人にも似合わず、白粉をびっくりするほど濃く刷いてしまったのです。見るに見かねたフランス人の衣裳方が、その白粉をおとしはじめて、こう言いました。
「|トロ・ボークー《たんとすぎます》、|トロ・ボークー《たんとすぎます》!」
 そして刷毛でもって、わたしの顔から余分な白粉をおとしてくれました。

      ※[#ローマ数字11、1−13−31]

 そのうちに、出し物が全部終演になると、わたしはド・ブールブラン公爵夫人の衣裳をぬがされ、代りに聖女ツェツィリヤの衣裳を着せられました。それはただもうまっ白な、袖もなければ何もない、ずんどうの衣裳で、肩のところがほんの申訳に蝶むすびに絞ってあるだけのものでしたが、この着附けにはわたしたち怖気《おじけ》をふるったものでした。さてそれが済むと、アルカージイがやって来て、わたしの髪をよく絵にある聖女ツェツィリヤのような浄らかな風情に結いあげたり、ほっそりした冠を輪金のように嵌めこんだりします。ふとアルカージイを見ると、わたしの小部屋の戸口には屈強な男が六人も立っているのです。それはつまり、あの人がわたしの髪をゆいあげて戸口へ戻って来るが早いか、有無を言わさず引っ捕えて、どこかへお仕置きに連れて行く手筈にちがいありません。そのお仕置きというのがまた、いっそ死刑の言渡しを受けた方が百層倍もましなほどのむごいものでした。吊し責めから引っ張り責め、それから頭しぼりや蝦《えび》責めなど、何から何まであるのですよ。ですからお屋敷のお仕置きに逢った者にとっては、おかみのお仕置きなんかまるで子供だましみたいなものだったのです。お屋敷の床下べた一面に秘密の穴倉が掘ってあって、そこには人間がまるで熊みたいに鎖につながれて入れられていました。そのそばを通りかかると、時おり鎖の鳴る音や、足枷《あしかせ》をはめられた人たちの呻き声が、聞えることもありました。そのむごい有様が、どうぞしてお役人衆の耳にとどくか、お役人衆が嗅ぎつけるかしてくれればいいがと、みんな心の中で思ってはいたものの、第一そのお役人衆が、てんで口ばしを入れる気がないのですから、なんにもなりはしません。おまけにそのお仕置きが永の年月つづき、中には一生涯出してもらえぬ人もありました。ある人などは長いこと入れられている間に、ついこんな歌を作ったほどでしたよ。――
[#ここから3字下げ]
蛇《くちなわ》めが這いよって 目の玉を吸いだすよ
さそりめが顔のうえに 毒を垂れながすよ
[#ここで字下げ終わり]
 こんな小っぽけな歌の文句も、ひとり胸の中でつぶやいてみると、思わず身の毛がよだつのでした。
 なかにはまた、ほんとの熊と一つ鎖につながれている連中もありました。ほんの七分か八分の違いで、熊の爪がその身にかからないだけの話だったのです。
 ただ一人アルカージイ・イリイーチの身にだけは、そんな責苦がふりかからずに済みました。というのは、戸口から一足跳びにわたしの小部屋へ飛び帰るが早いか、あっというまもなくテーブルを振りあげざま、いきなり窓枠いっぱい叩き破ったのですが、それから一体どうなったものか、あとは皆目おぼえがありません。……
 なんだか足の方が冷え冷えするので、わたしはだんだん正気づいて来ました。急いで両足を引っこめた時の感じでは、わたしはどうやら狼か熊の毛皮外套にくるまっているらしいのですが、あたりは綾目もわかぬ真の闇、ただトロイカが威勢よく韋駄天ばしりに走っているのがそれと分るばかりで、一体どこへ行くものやら見当がつきません。わたしのそばには二人の男が一かたまりになって、広い橇の中に坐っているのですが、そのうちわたしをしっかり抱えているのがアルカージイ・イリイーチで、もう一人の男は力いっぱい馬に鞭をくれているのでした。……雪ぼこりは馬の蹄の下から渦まきかかって来るし、橇も右へ左へ、今にも引っくり返りそうに傾ぐのです。もしわたしたちが床板にじかに坐っていず、また互いに手を取りあっていなかったら、誰ひとり命はなかったに違いありません。
 聞えるのは二
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