伯爵はアルカージイを呼んで、こう言い渡されました、――
「わしの弟の宿へ行って、あれのむく犬を刈込んでやれ。」
 アルカージイは問い返しました、
「お言いつけはそれだけでございますか?」
「ただそれだけだ」と伯爵、――「だが一刻も早く立戻って、女役者どもの髪を作るのだぞ。今囘リューバは三役三様に髪をととのえてやらねばならん。そして芝居がはねたら、聖女ツェツィリヤの姿《なり》をさせて、わしの目通りへ出すのだ。」
 アルカージイ・イリイーチは、よろよろっとしました。
 伯爵は見とがめて、――
「どうかしたのか?」
 けれどアルカージイは答えました、――
「これは粗忽をいたしました、敷物につまずきましたので。」
 伯爵は意味ありげに、――
「気をつけろよ、辻占が悪い。」
 ですがアルカージイの胸のうちは、今さら辻占がよかろうと悪かろうとそんな段のことではなかったのです。
 このわたしをツェツィリヤに仕立てろというお言いつけに、さながら目もつぶれ耳もつぶれた思いになって、道具を入れた革箱をかかえると、ふらふら出て行きました。

      ※[#ローマ数字9、1−13−29]

 さて弟ぎみのお部屋へ通ってみると、そこにはもう姿見の前に蝋燭がすっかりともされ、またもや例のピストルが二挺と、それに小判が今度は二枚ではなしに十枚、ずらりと並べてありました。しかもそのピストルに込めてあるのは、空弾ではなくって、本物のチェルケースだまだったのです。
 弟ぎみが申されるには、――
「むく犬なんぞ一匹もおりはせんがな、わしの用というのはほかでもない、――わしを一つせいぜい毅々しい男前に仕立てて褒美の小判十枚を持って帰るがよい。だが万がいち切りでもしたら、一命はきっと貰い受けるぞ。」
 アルカージイは、じいっと穴のあくほど見つめに見つめていましたが、そのうち不意と、一体どんな気になったものでしょうか、――とにかく弟ぎみのおつむを刈ったり、お顔をあたったりしはじめました。みるみるうちに一段といい男ぶりに仕上げてしまうと、小判をポケットへざくざくと納め、こう言いました、――
「ではおいとまを。」
 弟ぎみは答えて、――
「うむ、行くがよい。だが一言きいて置きたいが、よくもお前は命知らずに、こんなことをやる決心がついたものだな?」
 するとアルカージイは、――
「わたくしが決心した次第は、ただこの胸の底に納めてございます。」
「ひょっとするとお前は、弾除けのまじないでも受けていて、それでピストルを怖れんのではないかな。」
「ピストルなんぞ、たわけたものでございます」と、アルカージイは答えました、――「とんと念頭にございませんです。」
「それはまた、どうしたわけだ? まさかお前は、いや主人の伯爵の誓言の方が弟たるこのわしの言葉よりは確かだ、たとえ切り疵をつけたところで、よもやぶっ放しはすまいなどと、高をくくっていたわけでもあるまいな? まじないの力がなければ、一命を失うところだったのだぞ。」
 アルカージイは、この弟ぎみの一言を聞くと、またもやぶるりと身をふるわし、半ば夢心地でこう口走りました、――
「まじないこそ掛ってはおりませんが、神様が分別をお授けくだすったのです。あなた様のお手がわたくしを射とうとピストルをお上げになるひまに、こっちが一足お先にこの剃刀で、おのど一杯ざくりと参るつもりだったのでございます。」
 そう言い棄てると、一さんに表へ駈けだして、ちょうどよい時刻に芝居小屋へ到着しましたが、いざわたしの顔を作りにかかっても、全身わなわな顫えがとまりません。そして、わたしの房毛をつまんで捲かせようと、唇で息を吹きかけるため屈みこむ度ごとに、一つ言葉をささやきこむのでした、――
「心配するな、連れ出してやるぞ。」

      ※[#ローマ数字10、1−13−30]

 芝居は上首尾で運んでゆきました。というのもわたしたちがみんな、怖ろしいことにも苦しいことにもすっかり馴れっこになって、まるで石像みたいな人間になっていたからです。ですから胸のなかに、どんなわだかまりがあろうと、あるまいと、一切おもてへは表わさず、自分の役はちゃんちゃんとやってのけたのです。
 舞台から見ると、伯爵も弟ぎみも来ていました。二人ともとてもよく似ていて、やがて楽屋へ見えた時でも、見分けるのがむずかしいくらいでした。ただ、うちの伯爵は、それはそれは大人しくって、がらり人柄が変ったみたいでした。それはいつもきまって、何かひどく暴れだす前にそうなるのでした。
 そこでわたしたちはみんな、心もそらになって、こんなふうに十字を切るのです。
「主よ、恵ませたまえ、救わせたまえ。一たい誰のあたまに、あの人の癇癪玉が破裂するのかしら?」
 ところでわたしたちはまだ、アルカーシャの気
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