「可愛い女 犬を連れた奥さん 他一編」あとがき
神西清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)叔父《おじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)Jonych[#「Jonych」は斜体]
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ここに収めた三編は、チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov, 1860−1904)がようやくその晩年の沈潜期に推し移ろうとする年代、つまり彼の三十八歳から翌年へかけての作品である。それはあたかも彼がその多産な小説家としての経歴をとじて、すでに『かもめ』や『ヴァーニヤ叔父《おじ》さん』などの成功を経験していた戯曲の世界へ筆を転じようとする年ごろであり、彼の生活の上では、胸の痼疾《こしつ》がようやく決定的な段階に入って、療養にいっそう不断の意をもちいなければならなくなった時代である。前年の晩秋から一八九八年の春へかけての南欧の旅(彼の生涯では三回目の)も、医師の切なる勧めによるものであったし、この年の秋、父の死後ただちに南ロシヤのヤールタに定住を決意することになったのも、やはり同じ理由からであった。
そのような年齢的、思想的、あるいは肉体的の影響は、この三つの作品にもとりどりの色合いで反映を見せている。その一面、作家チェーホフの暗鬱《あんうつ》をきわめる精神の内部にようやく一脈の微光がさしそめて、未来の日の希望へと見開かれる末期のひとみの用意ができあがろうとしていることも、恐らくは否定しがたい事実で、心ゆくまで地味で落ちついたこれら作品の地膚の上には、彼の世界観のおのずからなる推移が、一種いい解きがたいなつかしいニュアンスとして投影している。
『ヨーヌィチ』Jonych[#「Jonych」は斜体] は一八九八年の作、同年九月の雑誌『畑』Niva[#「Niva」は斜体] の文芸付録に発表された。およそ暗鬱といえばチェーホフの全作品の中でもあまり類例を見ないほどの暗鬱な作柄で、窒息せんばかりの小市民生活の泥沼をひたむきにえぐり描いた同年の名作『箱入り男』Chelovek vi futljale[#「Chelovek vi futljale」は斜体] と同じ系統に属しながら、深い静かな味わいの点ではむしろそれを立ち越えるものがあるであろう。
『可愛い女』Dushechka[#「Dushechka」は斜体] は一
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