八九八年末の脱稿で、翌年一月に雑誌『家庭』Semija[#「Semija」は斜体] に発表された。チェーホフの数ある作品の中でも最も愛誦《あいしょう》され、最も人口に膾炙《かいしゃ》した作品であろう。トルストイがこれを四度も続けさまに朗読して、しかも少しも倦《う》まなかったという逸話は余りにも有名である。同じくトルストイはその編著『読書の環』にこの作品を載せて、チェーホフを旧約聖書のバラム(『民数紀略』二十二章以下)になぞらえ、「彼も初めは詛《のろ》うつもりだったが、詩神がそれを制してかえって祝福せしめられたものである」と述べ、このオーリャという可憐《かれん》な映像を、「女性というものが自ら幸福となり、また運命によって結ばれる相手を幸福ならしめんがために到達し得る姿の永遠の典型」としてたたえている。全体にやや民話ふうなやさしい素朴な調子を帯びながらも、ある意味ではまた、当時ロシヤ社会にやかましかった婦人問題に対するチェーホフの静かな抗議とも見られる作品である。
『犬を連れた奥さん』Dama s sobachkoi[#「Dama s sobachkoi」は斜体] は雑誌『ロシヤ思想』Russkaja myslj[#「Russkaja myslj」は斜体] の一八九九年十二月号に発表された。脱稿はその年の十月だが、チェーホフとしては珍しくよほどの苦心のいった作であったと見え、雑誌発表の際にも校正を二度重ね、その後一九〇三年版の作品集に収めるに当っても相当はげしい斧鉞《ふえつ》を加えて、ようやく現在の形になったものである。それかあらぬかこの作品は、その手法の簡素さ、味わいの渋さ、ほとんど象徴的なまでの気分の深さ、更には暗鬱な地膚のうえに漂うそこはかとないほの明りなどによって、後期のチェーホフの芸術的特徴を遺憾なく発揮しており、彼の生涯を通じての一代表作たるを失わない出来ばえである。若きゴーリキイがこれを一読して、「リアリズムに最後のとどめをさすもの」と感嘆しているのもよく首肯できる事柄である。
一九四〇年夏
[#地から3字上げ]訳者
底本:「可愛い女・犬をつれた奥さん 他一編」岩波版ほるぷ図書館文庫、岩波書店
1975(昭和50)年9月1日第1刷発行
1976(昭和51)年4月1日第2刷発行
入力:蒋龍
校正:川山隆
2008年5月18日作成
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