》いが、術《じゆつ》に掛《か》けては又《また》なか/\侮《あなど》られんと思《おも》ふ。で願《ねがは》くはだ、君《きみ》、何卒《どうぞ》一つ充分《じゆうぶん》に彼《かれ》を信《しん》じて、療治《れうぢ》を專《せん》一にして頂《いたゞ》きたい。彼《かれ》も私《わたし》に屹度《きつと》君《きみ》を引受《ひきう》けると云《い》つてゐたよ。』
 アンドレイ、エヒミチは此《こ》の切《せつ》なる同情《どうじやう》の言《ことば》と、其上《そのうへ》涙《なみだ》をさへ頬《ほゝ》に滴《た》らしてゐる郵便局長《いうびんきよくちやう》の顏《かほ》とを見《み》て、酷《ひど》く感動《かんどう》して徐《しづか》に口《くち》を開《ひら》いた。
『君《きみ》は彼等《かれら》を信《しん》じなさるな。嘘《うそ》なのです。私《わたし》の病氣《びやうき》と云《い》ふのは抑《そも/\》恁《か》うなのです。二十|年來《ねんらい》、私《わたし》は此《こ》の町《まち》にゐて唯《たゞ》一人《ひとり》の智者《ちしや》に遇《あ》つた。所《ところ》が其《そ》れは狂人《きちがひ》で有《あ》ると云《い》ふ、是丈《これだけ》の事實《じゝつ》です。で私《わたし》も狂人《きちがひ》にされて了《しま》つたのです。然《しか》しなあに私《わたし》は奈何《どう》でも可《い》いので、からして畢竟《つまり》何《なん》にでも同意《どうい》を致《いた》しませう。』
『病院《びやうゐん》へお入《はひ》りなさい、ねえ君《きみ》。』
『左樣《さやう》、奈何《どう》でも可《い》いです、縱令《よしんば》穴《あな》の中《なか》に入《はひ》るのでも。』
『で、君《きみ》は萬事《ばんじ》エウゲニイ、フエオドロヰチの言《ことば》に從《したが》ふやうに、ねえ君《きみ》、頼《たの》むから。』
『宜《よろ》しい、私《わたし》は今《いま》は實《じつ》以《もつ》て二《につ》ちも三《さつ》ちも行《ゆ》かん輪索《わな》に陷沒《はま》つて了《しま》つたのです。もう萬事休矣《おしまひ》です覺悟《かくご》はしてゐます。』
『いや屹度《きつと》平癒《なほる》ですよ。』
 格子《こうし》の外《そと》には公衆《こうしゆう》が次第《しだい》に群《むらが》つて來《く》る。アンドレイ、エヒミチは、ミハイル、アウエリヤヌヰチの公務《こうむ》の邪魔《じやま》を爲《す》るのを恐《おそ》れて、話《はなし》は其丈《それだけ》にして立上《たちあが》り、彼《かれ》と別《わか》れて郵便局《いうびんきよく》を出《で》た。
 丁度《ちやうど》其日《そのひ》の夕方《ゆうがた》、ドクトル、ハヾトフは例《れい》の毛皮《けがは》の外套《ぐわいたう》に、深《ふか》い長靴《ながぐつ》、昨日《きのふ》は何事《なにごと》も無《な》かつたやうな顏《かほ》で、アンドレイ、エヒミチを其宿《そのやど》に訪問《たづ》ねた。
『貴方《あなた》に少々《せう/\》お願《ねがひ》が有《あ》つて出《で》たのですが、何卒《どうぞ》貴方《あなた》は私《わたくし》と一つ立合診察《たちあひしんさつ》を爲《し》ては下《くだ》さらんか、如何《いかゞ》でせう。』と、然《さ》り氣《き》なくハヾトフは云《い》ふ。
 アンドレイ、エヒミチはハヾトフが自分《じぶん》を散歩《さんぽ》に誘《さそ》つて氣晴《きばらし》を爲《さ》せやうと云《い》ふのか、或《あるひ》は又《また》自分《じぶん》に那樣仕事《そんなしごと》を授《さづ》けやうと云《い》ふ意《つもり》なのかと考《かんが》へて、左《と》に右《かく》服《ふく》を着換《きか》へて共《とも》に通《とほり》に出《で》たのである。彼《かれ》はハヾトフが昨日《きのふ》の事《こと》は噫《おくび》にも出《だ》さず、且《か》つ氣《き》にも掛《か》けてゐぬやうな樣子《やうす》を見《み》て、心中《しんちゆう》一方《ひとかた》ならず感謝《かんしや》した。這麼非文明的《こんなひぶんめいてき》な人間《にんげん》から、恁《かゝ》る思遣《おもひや》りを受《う》けやうとは、全《まつた》く意外《いぐわい》で有《あ》つたので。
『貴方《あなた》の有仰《おつしや》る病人《びやうにん》は何處《どこ》なのです?』アンドレイ、エヒミチは問《と》ふた。
『病院《びやうゐん》です、もう疾《と》うから貴方《あなた》にも見《み》て頂《いたゞ》き度《たい》と思《おも》つてゐましたのですが……妙《めう》な病人《びやうにん》なのです。』
 施《やが》て病院《びやうゐん》の庭《には》に入《い》り、本院《ほんゐん》を一周《ひとまはり》して瘋癲病者《ふうてんびやうしや》の入《い》れられたる別室《べつしつ》に向《むか》つて行《い》つた。ハヾトフは其間《そのあひだ》何故《なにゆゑ》か默《もく》した儘《まゝ》、さツさ[#「さツさ」に傍点]と六|號室《がうし
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