の權幕《けんまく》に辟易《へきえき》して戸口《とぐち》の方《はう》に狼狽《まご/\》出《で》て行《ゆ》く。ドクトルは其後《そのあと》を睨《にら》めてゐたが、匆卒《ゆきなり》ブローミウム加里《カリ》の壜《びん》を取《と》るより早《はや》く、發矢《はつし》と計《ばか》り其處《そこ》に投《なげ》付《つけ》る、壜《びん》は微塵《みぢん》に粉碎《ふんさい》して了《しま》ふ。
『畜生《ちくしやう》! 行《ゆ》け! さツさと行《ゆ》け!』と彼《かれ》は玄關迄《げんくわんまで》駈出《かけだ》して、泣聲《なきごゑ》を上《あ》げて怒鳴《どな》る。『畜生《ちくしやう》!』
 客等《きやくら》が立去《たちさ》つてからも、彼《かれ》は一人《ひとり》で未《ま》だ少時《しばらく》惡體《あくたい》を吻《つ》いてゐる。然《しか》し段々《だん/\》と落着《おちつ》くに隨《したが》つて、有繋《さすが》にミハイル、アウエリヤヌヰチに對《たい》しては氣《き》の毒《どく》で、定《さだ》めし恥入《はぢい》つてゐる事《こと》だらうと思《おも》へば。あゝ思慮《しりよ》、知識《ちしき》、解悟《かいご》、哲學者《てつがくしや》の自若《じゝやく》、夫《そ》れ將《は》た安《いづく》にか在《あ》ると、彼《かれ》は只管《ひたすら》に思《おも》ふて、慙《は》ぢて、自《みづか》ら赤面《せきめん》する。
 其夜《そのよ》は慙恨《ざんこん》の情《じやう》に驅《か》られて、一|睡《すゐ》だも爲《せ》ず、翌朝《よくてう》遂《つひ》に意《い》を決《けつ》して、局長《きよくちやう》の所《ところ》へと詫《わび》に出掛《でかけ》る。
『いやもう過去《くわこ》は忘《わす》れませう。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは固《かた》く彼《かれ》の手《て》を握《にぎ》つて云《い》ふた。『過去《くわこ》の事《こと》を思《おも》ひ出《だ》すものは、兩眼《りやうがん》を抉《くじ》つて了《しま》ひませう。リユバフキン!』と、彼《かれ》は大聲《おほごゑ》で誰《だれ》かを呼《よ》ぶ。郵便局《いうびんきよく》の役員《やくゐん》も、來合《きあ》はしてゐた人々《ひと/″\》も、一|齊《せい》に吃驚《びつくり》する。『椅子《いす》を持《も》つて來《こ》い。貴樣《きさま》は待《ま》つて居《を》れ。』と、彼《かれ》は格子越《かうしごし》に書留《かきとめ》の手紙《てがみ》を彼《かれ》に差出《さしだ》してゐる農婦《のうふ》に怒鳴《どな》り付《つけ》る。『俺《おれ》の用《よう》の有《あ》るのが見《み》えんのか。いや過去《くわこ》は思《おも》ひ出《だ》しますまい。』と彼《かれ》は調子《てうし》を一|段《だん》と柔《やさ》しくしてアンドレイ、エヒミチに向《むか》つて云《い》ふ。『さあ君《きみ》、掛《か》け給《たま》へ、さあ何卒《どうか》。』
 一|分間《ぷんかん》默《もく》して兩手《りやうて》で膝《ひざ》を擦《こす》つてゐた郵便局長《いうびんきよくちやう》は又《また》云出《いひだ》した。
『私《わたくし》は決《けつ》して君《きみ》に對《たい》して立腹《りつぷく》は致《いた》さんので、病氣《びやうき》なれば據無《よんどころな》いのです、お察《さつ》し申《もを》すですよ。昨日《きのふ》も君《きみ》が逆上《のぼせ》られた後《のち》、私《わたし》はハヾトフと長《なが》いこと、君《きみ》のことを相談《さうだん》しましたがね、いや君《きみ》も此度《こんど》は本氣《ほんき》になつて、病氣《びやうき》の療治《れうぢ》を遣《や》り給《たま》はんと可《い》かんです。私《わたし》は友人《いうじん》として何《なに》も彼《か》も打明《うちあ》けます。』と、彼《かれ》は更《さら》に續《つゞ》けて。『全體《ぜんたい》君《きみ》は不自由《ふじいう》な生活《せいくわつ》をされてゐるので、家《いへ》と云《い》へば清潔《せいけつ》でなし、君《きみ》の世話《せわ》をする者《もの》は無《な》し、療治《れうぢ》をするには錢《ぜに》は無《な》し。ねえ君《きみ》、で我々《われ/\》は切《せつ》に君《きみ》に勸《すゝ》めるのだ。何卒《どうぞ》是非《ぜひ》一つ聽《き》いて頂《いたゞ》きたい、と云《い》ふのは、實《じつ》は然云《さうい》ふ譯《わけ》であるから、寧《むしろ》君《きみ》は病院《びやうゐん》に入《はひ》られた方《はう》が得策《とくさく》であらうと考《かんが》へたのです。ねえ君《きみ》、病院《びやうゐん》は未《ま》だ比較的《ひかくてき》、食物《しよくもつ》は好《よ》し、看護婦《かんごふ》はゐる、エウゲニイ、フエオドロヰチもゐる。其《そ》れは勿論《もちろん》、是《これ》は我々丈《われ/\だけ》の話《はなし》だが、彼《かれ》は餘《あま》り尊敬《そんけい》をすべき人格《じんかく》の男《をとこ》では無《な
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