どでは駄目《だめ》だ、又《また》善《よ》い補助者《ほじよしや》が必要《ひつえう》である、然《しか》るに這麼盜人計《こんなぬすびとばか》りでは駄目《だめ》だ。
 而《さう》して死《し》が各人《かくじん》の正當《せいたう》な終《をはり》であるとするなれば、何《なん》の爲《ため》に人々《ひと/″\》の死《し》の邪魔《じやま》をするのか。假《かり》にある商人《しやうにん》とか、ある官吏《くわんり》とかゞ、五|年《ねん》十|年《ねん》餘計《よけい》に生延《いきの》びたとして見《み》た所《ところ》で、其《そ》れが何《なん》になるか。若《もし》又《また》醫學《いがく》の目的《もくてき》が藥《くすり》を以《もつ》て、苦痛《くつう》を薄《うす》らげるものと爲《な》すなれば、自然《しぜん》茲《こゝ》に一つの疑問《ぎもん》が生《しやう》じて來《く》る。苦痛《くつう》を薄《うす》らげるのは何《なん》の爲《ため》か? 苦痛《くつう》は人《ひと》を完全《くわんぜん》に向《むか》はしむるものと云《い》ふでは無《な》いか、又《また》人類《じんるゐ》が果《はた》して丸藥《ぐわんやく》や、水藥《すゐやく》で、其苦痛《そのくつう》が薄《うす》らぐものなら、宗教《しゆうけう》や、哲學《てつがく》は必要《ひつえう》が無《な》くなつたと棄《すつ》るに至《いた》らう。プシキンは死《し》に先《さきだ》つて非常《ひじやう》に苦痛《くつう》を感《かん》じ、不幸《ふかう》なるハイネは數年間《すうねんかん》中風《ちゆうぶ》に罹《かゝ》つて臥《ふ》してゐた。して見《み》れば原始蟲《げんしちゆう》の如《ごと》き我々《われ/\》に、切《せめ》て苦難《くなん》てふものが無《な》かつたならば、全《まつた》く含蓄《がんちく》の無《な》い生活《せいくわつ》となつて了《しま》ふ。からして我々《われ/\》は病氣《びやうき》するのは寧《むし》ろ當然《たうぜん》では無《な》いか。
 恁《かゝ》る議論《ぎろん》に全然《まるで》心《こゝろ》を壓《あつ》しられたアンドレイ、エヒミチは遂《つひ》に匙《さじ》を投《な》げて、病院《びやうゐん》にも毎日《まいにち》は通《かよ》はなくなるに至《いた》つた。

       (六)

 彼《かれ》の生活《せいくわつ》は此《かく》の如《ごと》くにして過《す》ぎ行《ゆ》いた。朝《あさ》は八|時《じ》に起《お》き、
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