なは》ち神《かみ》の像《ざう》たる人間《にんげん》が。唯《たゞ》に醫者《いしや》として、邊鄙《へんぴ》なる、蒙昧《もうまい》なる片田舍《かたゐなか》に一|生《しやう》、壜《びん》や、蛭《ひる》や、芥子紛《からしこ》だのを弄《いぢ》つてゐるより外《ほか》に、何《なん》の爲《な》す事《こと》も無《な》いのでせうか、詐欺《さぎ》、愚鈍《ぐどん》、卑劣漢《ひれつかん》、と一|所《しよ》になつて、いやもう!』
『下《くだ》らん事《こと》を貴方《あなた》は零《こぼ》して居《ゐ》なさる。醫者《いしや》が不好《いや》なら大臣《だいじん》にでもなつたら可《い》いでせう。』
『いや、何處《どこ》へ行《ゆ》くのも、何《なに》を遣《や》るのも望《のぞ》まんです。考《かんが》へれば意氣地《いくぢ》が無《な》いものさ。是迄《これまで》は虚心《きよしん》平氣《へいき》で、健全《けんぜん》に論《ろん》じてゐたが、一|朝《てう》生活《せいくわつ》の逆流《ぎやくりう》に觸《ふ》るゝや、直《たゞち》に氣《き》は挫《くじ》けて落膽《らくたん》に沈《しづ》んで了《しま》つた……意氣地《いくぢ》が無《な》い……人間《にんげん》は意氣地《いくぢ》が無《な》いものです、貴方《あなた》とても猶且《やはり》然《さ》うでせう、貴方《あなた》などは、才智《さいち》は勝《すぐ》れ、高潔《かうけつ》ではあり、母《はゝ》の乳《ちゝ》と共《とも》に高尚《かうしやう》な感情《かんじやう》を吸込《すひこ》まれた方《かた》ですが、實際《じつさい》の生活《せいくわつ》に入《い》るや否《いなや》、直《たゞち》に疲《つか》れて病氣《びやうき》になつて了《しま》はれたです。實《じつ》に人《ひと》は微弱《びじやく》なものだ。』
彼《かれ》には悲愴《ひさう》の感《かん》の外《ほか》に、未《ま》だ一|種《しゆ》の心細《こゝろぼそ》き感《かん》じが、殊《こと》に日暮《ひぐれ》よりかけて、しんみり[#「しんみり」に傍点]と身《み》に泌《し》みて覺《おぼ》えた。是《これ》は麥酒《ビール》と、莨《たばこ》とが、欲《ほ》しいので有《あ》つたと彼《かれ》も終《つひ》に心着《こゝろづ》く。
『私《わたし》は此處《こゝ》から出《で》て行《ゆ》きますよ、君《きみ》。』と、彼《かれ》はイワン、デミトリチに恁《か》う云《い》ふた。『此《こゝ》へ燈《あかり》を持《も》つ
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