け散ったり、明滅したりするのだった。やがて、誰でも、眼をつぶると見えるあの広びろした真黒な背景の上から、今いったような幻がすっかり消え失せてしまうと、今度は彼の耳に気ぜわしげな足音や、さらさらいう衣ずれの音や、ちゅっという接吻の響きがきこえだして、――強烈な、これという理由もない歓喜の情が、彼をとらえてしまった。……その嬉しさに身をゆだねながら、彼は従卒が帰って来て、ビールはありませんと復命するのを夢うつつのうちに聞いていた。ロブィトコはおそろしく憤慨して、またもや大股に歩きはじめた。
「なあ、こいつ白痴《こけ》じゃないのかい?」と彼は、リャボーヴィチの前に立停ったり、メルズリャコーフの前に立停ったりしながら言うのだった。「ビール一つ見つけられんなんて、木偶《でく》の坊とも大馬鹿とも、方図が知れんじゃないか! ああん? いやさ、こいつ横着なんじゃないのかい?」
「当り前ですよ、こんな所にビールがあるもんですか」とメルズリャコーフが言ったが、眼は相変らず『ヨーロッパ通報』から離しもしない。
「へえ? 君はそう思うのかい?」とロブィトコはからんで行った。「やれやれ情けない話だ、この僕だった
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