察するところどこかのお嬢さんか奥さんが、あの真暗な部屋で誰かと逢引の約束をして、長いこと待たされた挙句に神経がいらいらしてしまって、ついリャボーヴィチを当の相手と思い込んだものに違いない。ましてやリャボーヴィチは、あの暗い部屋を通り抜ける途中で、思案に暮れて立ちどまった、つまりこっちもやはり、何かを待ち設ける人のような様子をしたのであってみれば、この想像はますます的確さを加えるといわなければならない。……と、そんな工合にリャボーヴィチは、例の接吻をわれとわが心に説明した。
『だがいったいどれだろうな、あの女は?』と彼はいならぶ婦人の顔をじろじろ見ながら考えた。『とにかく若い女に違いあるまいて、年寄りは逢引なんかしないからな。おまけに、あの女がちゃんと教養のそなわった婦人だということは、その衣ずれの音からも、あの匂いからも、あの声音からもわかることだ……』
 彼は例の藤色の令嬢にふと眼をとめたが、するとこのお嬢さんがすっかり気に入ってしまった。彼女は美しい肩と腕の持主で、それに才気の溢れる顔つきで、えもいわれぬ声をしていた。リャボーヴィチは、このお嬢さんを眺めているうちに、余人ならぬまさ
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