したおぼえのない感覚に、身も心もすっかり任せきってしまった。彼には何やら不思議なことが起っていたのである。……つい今しがた、いい匂いのするふっくらと柔らかな両腕に抱きしめられた彼の頸筋は、香油でも塗られたような気持がしていたし、頬はというと、見知らぬ女に接吻された左の口髭のあたりが、まるで薄荷水でも滴《た》らしたように微かにいい気持にすうすうして、そこをこすればこするほど、そのすうすうした感じがますます強烈になってゆくといった始末で、彼は全身、頭のてっぺんから足の先まで、ついぞ味わったことのない不思議な感じで一ぱいになってしまい、しかも、その感じが刻一刻と増大してゆくのだった。……彼は踊りたくなった、喋りたくなった、庭へ駈け出したり、大声で笑ったりしたくなった。……彼は自分が猫背で、ぱっとしない人間だということも、自分の頬髯は山猫みたいで、おまけに『もやもやした風采』(と或る時の婦人連の会話の中で自分の風采が評されていたのを、彼はひょっくり立聴きしたことがあった)の持主であることも、きれいさっぱり忘れてしまった。そこへ通りかかったラッベクの奥さんに向って、彼はにっこり笑いかけたが、それ
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