っきり見知らぬ少女と一緒にいるところを瞼に描いてみるといった調子で、心の中で話をしたり、愛撫したり、相手の肩へしなだれかかったり、さてはまた、戦争や別離や、その後の再会を思い描いたり、妻と水入らずの夜食の場面や、子供たちを想像してみたりした。……
「ブレーキをかけえ!」という号令が坂を下りるたびにひびき渡った。
 彼もやはり『ブレーキをかけえ』と呶鳴るのだったが、その都度、この叫びが自分の空想を破りはしまいか、自分を現実へ呼び戻しはしまいかとびくびくした。……
 ある地主の領地の傍を通りかかった時、リャボーヴィチは外周《そとまわ》りの植込みごしに庭を覗いてみた。彼の眼にうつったのは、長い、まるで定規みたいに真直な並木道で、それに黄色い砂が撒いてあり、白樺の若木が両側に植わっていた。……空想におぼれ込んだ人間に現われるあの執念ぶかさで、彼は婦人の小さな足がその黄色い砂を踏んで行くところを念頭に浮べてみたが、すると全く思いがけなく彼の想像裡には、例の自分に接吻した女の面影、ゆうべの夜食の席で彼がやっとこさで心に浮びあがらせたあの女の面影が、くっきりと描き出された。その面影は彼の脳裡におみこしを据えて、もはや二度と再び彼を見すてなかった。
 正午になると、後方の輜重のあたりで、こんな叫び声がきこえた。
「歩調とれえ! 頭ァ左! 将校敬礼っ!」〔[#割り注]この号令の前二句は兵卒に対するもの、最後の一句は将校に対するもの[#割り注終わり]〕
 二頭の白馬に曳かせた半幌の馬車で、旅団長が通りかかったのである。彼は第二中隊の辺で車をとめて、何やら大声を立てはじめたが、何を言ってるのか誰にもわからなかった。彼をめがけて数名の将校が馬を飛ばせた中に、リャボーヴィチもまじっていた。
「で、どうかな? ええ?」と将軍は訊ねながら、赤い眼をぱちぱちさせた。「病人はあるかな?」
 返答を耳にすると、小兵で痩せっぽちの将軍はちょいと口をもぐもぐさせて、何やら思案していたが、やがて一人の将校に向ってこう言った。――
「君の隊の第三砲車の後馬に乗っとる兵は、脛当を外しおってな、所もあろうに前車にぶら下げておるぞ、怪しからん。あいつは処罰したまえ。」
 それから眼を上げて、リャボーヴィチの顔にぴたりとつけると、言葉をつづけた。――
「それから君の乗馬の鞦《しりがい》は、どうも長すぎるようだぞ……」
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