しい仕事に手をつけさえすりゃ、世間に正直な、まともな人間がどんなに少ないかが、すぐにわかる。時どき、寝られない晩なんか、こんなことを考えたりしますよ、――「神よ、あなたは実にどえらい森や、はてしもない野原や、底しれぬ地平線をお授けになりました。で、そこに住むからには、われわれも本当は、雲つくような巨人でなければならんはずです……」とね。
ラネーフスカヤ まあ、巨人がご入用ですって……。お伽話《とぎばなし》のなかでこそ、あれもいいけれど、ほんとに出てきたら怖いわ。

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舞台の奥をエピホードフが通りかかって、ギターを弾く。
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ラネーフスカヤ (もの思わしげに)エピホードフが歩いてる。……
アーニャ (もの思わしげに)エピホードフが歩いてる。
ガーエフ 日が沈んだよ、諸君。
トロフィーモフ そう。
ガーエフ (低い声で、朗読口調で)おお、自然よ、霊妙なるものよ、おんみは不滅の光明に輝く。われらが母と仰ぐ、美しく冷やかなおんみは、おのれのうちに生と死を結び合わす。おんみは物みなを生み、物みなを滅ぼす。……
ワーリャ (哀願するように)伯父さん!
アーニャ 伯父さま、また!
トロフィーモフ あなたは、黄玉を空《から》クッションで真ん中へ、のほうがいいですよ。
ガーエフ 黙るよ、黙っているよ。

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みんな坐って、物思いに沈む。静寂。聞えるのは、フィールスの小声のつぶやきばかり。不意にはるか遠くで、まるで天からひびいたような物音がする。それは弦《つる》の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。

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ラネーフスカヤ なんだろう、あれは?
ロパーヒン 知りませんなあ。どこか遠くの鉱山で、巻揚機《ウインチ》の綱でも切れたんでしょう。しかし、どこかよっぽど遠くですなあ。
ガーエフ もしかすると、何か鳥が舞いおりたのかも知れん……蒼《あお》サギか何かが。……
トロフィーモフ それとも、大ミミズクかな……
ラネーフスカヤ (身ぶるいして)なんだか厭な気持。(間)
フィールス あの不幸の前にも、やはりこんなことがありました。フクロウも啼《な》きたてたし、サモワールもひっきりなしに唸《うな》りましたっけ。
ガーエフ 不幸の前というと?
フィールス 解放令の前でございますよ。(間)
ラネーフスカヤ ねえ皆さん、うちへはいりましょうよ、日が暮れてきたわ。(アーニャに)まあ、涙なんか溜《た》めて……。どうかしたの、アーニャ? (抱きよせる)
アーニャ なんでもないの、ママ。ただ、ちょっと。
トロフィーモフ 誰《だれ》か来る。

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浮浪人が出てくる。古ぼけたヒサシ帽をかぶり、外套《がいとう》をまとい、少し酔っている。
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浮浪人 ちょっとお尋ねしますが、ここをまっすぐ、停車場へ出られますかね?
ガーエフ 出られますよ。その道をお行きなさい。
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります。(咳《せき》ばらいをして)まことによいお天気で……(朗読する)はらからよ、苦しみ悩むはらからよ。……出《い》でてみよ、ヴォルガのほとり、聞ゆるは誰の呻《うめ》きぞ。([#ここから割り注]訳注 ネクラーソフの詩より[#ここで割り注終わり])……(ワーリャに)マドモワゼル、この飢えたるロシアの民に、三十コペイカほどどうぞ……

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ワーリャおびえて、声を立てる。
[#ここで字下げ終わり]

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ロパーヒン (憤然として)無作法にも程度というものがあるぞ。
ラネーフスカヤ (怖気《おじけ》づいて)持ってらっしゃい……さあ、これを……(巾着《きんちゃく》の中をさがす)銀貨がないわ。……まあいい、さ、この金貨を……
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります! (退場)

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笑い。
[#ここで字下げ終わり]

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ワーリャ (あきれて)わたし行くわ……あっちへ行くわ。……お母さまったら、うちの人たちに食べさせる物がないというのに、あんな男に金貨をやるなんて。
ラネーフスカヤ わたし馬鹿《ばか》なんだもの、仕方がないわ! うちへ帰ったら、わたしの手持ちを残らず渡すからね。ロパーヒンさん、また貸してちょうだい! ……
ロパーヒン 承知しました。
ラネーフスカヤ さあ行きましょう、皆さん、時刻ですわ。そうそうワーリャ、さっきここでね、お前の縁談をととのえましたよ、おめでとう。
ワーリャ (涙ごえで)そんなこと、冗談に仰《おっ》しゃるもんじゃないわ、ママ。
ロパーヒン オフメーリア([#ここから割り注]訳注 オフィーリアをわざわざ、オストロフスキーの有名な芝居の登場人物の名にもじったもの。この名は「一杯きげん」の意味を含んでいるおかしみがある[#ここで割り注終わり])、ささ尼寺へ……
ガーエフ どうも手がふるえてならん、久しく玉突きをやらないもんだから。
ロパーヒン オフメーリア、おお水妖《ニンフ》よ。躬《み》が上も祈り添えてたもれ!
ラネーフスカヤ 行きましょうよ、皆さん。そろそろお夜食よ。
ワーリャ あの男のおかげで、ほんとにびっくりしたわ。胸がこんなにドキドキしている。
ロパーヒン 念のため申しあげておきますが、皆さん、八月二十二日には桜の園は競売になります。お考えねがいますよ! ……よくお考えをね! ……

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トロフィーモフとアーニャのほか、一同退場。
[#ここで字下げ終わり]

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アーニャ (笑いながら)浮浪人さん、ありがとう。ワーリャをおどかしてくれたおかげで、やっと二人きりになれたわ。
トロフィーモフ ワーリャはね、僕たちがもしや恋仲になりはしまいかと警戒して、毎日、朝から晩まで、ああして付きっきりなんだ。あの人は、自分の狭い料簡《りょうけん》で、われわれが恋愛を超越していることがわからないんだ。われわれの自由と幸福をさまたげている、あのけちくさい妄想《もうそう》を追っぱらうこと、これが僕らの生活の目的であり意義なんです。進みましょう、前へ! 僕らは、はるか彼方《かなた》に輝いている明るい星をめざして、まっしぐらに進むのだ! 前へ! おくれるな、友よ!
アーニャ (手をたたいて)すてきだわ、あなたの話! (間)今日、ここはなんていいんでしょう!
トロフィーモフ そう、すばらしい天気です。
アーニャ あなたのおかげで、わたしどうかしてしまったわ、ペーチャ。なぜわたし、前ほど桜の園が好きでなくなったのかしら? あんなに、うっとりするほど好きだったのに、――この世に、うちの庭ほどいい所はないと思っていたのに。
トロフィーモフ ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は宏大《こうだい》で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ。(間)ね、思ってもご覧なさい、アーニャ、あなたのお祖父《じい》さんも、ひいお祖父さんも、もっと前の先祖も、みんな農奴制度の讃美者《さんびしゃ》で、生きた魂を奴隷《どれい》にしてしぼり上げていたんです。で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼《め》があなたを見ていはしませんか、その声があなたには聞えませんか? ……生[#「生」に「*」の傍記]きた魂を、わが物顔にこき使っているうちに――それがあなたがたを皆、むかし生きていた人も、現在いきている人も、すっかり堕落させてしまって、あなたのお母さんも、あなたも、伯父さんも、自分の腹を痛めずに、他人《ひと》のふところで、暮していることにはもう気がつかない、――あなた方が控室より先へは通さない連中の、ふところでね。([#ここから割り注]訳注 *以下は上演当時の検閲のため削除されたので、一九〇四年の初版本には、次のように言いかえられていた。――「ああ、怖ろしいことだ、お宅の庭は不気味です。晩か夜なかに庭を通り抜けると、桜の木の古い皮がぼんやり光って、さも桜の木が、百年二百年まえにあったことを夢に見ながら、重くるしい幻にうなされているような気がします。いやはや、まったく!」[#ここで割り注終わり])……われわれは、少なくも二百年は後れています。ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする断乎《だんこ》たる態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱《ゆううつ》をかこったり、ウオッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるためには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、――それは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。そこをわかってください、アーニャ。
アーニャ わたしたちの今住んでいる家《うち》は、もうとうに、わたしたちの家じゃないのよ。だからわたし出て行くわ。誓ってよ。
トロフィーモフ もしあなたが、家政の鍵《かぎ》をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。
アーニャ (感激して)それ、すばらしい表現だわ!
トロフィーモフ 信じてください、アーニャ、僕を信じて! 僕はまだ三十にならない、僕は若い、まだ学生ですが、これでずいぶん苦労はして来ましたよ! 冬になると、たちまち僕は口が乾《ひ》あがって、病みついて、いらいらして、乞食《こじき》も同然の境涯に落ちこんで、――運命の追うがままに、所きらわずほっつき歩いたもんです! それでもやっぱり僕の心は、夜も昼もたえず、いついかなる瞬間にも、一種なんとも言えぬ予感に満たされていました。僕は幸福を予感します、アーニャ、僕にはもうそれが見える……
アーニャ (もの思わしげに)月が出たわ。

[#ここから2字下げ]
エピホードフが相変らず同じわびしい歌を、ギターで弾いているのが聞える。月がのぼる。どこかポプラの木のへんで、ワーリャがアーニャをさがしながら、「アーニャ! どこにいるの?」と呼んでいる。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
トロフィーモフ そう、月が出ました。(間)そら、あれが幸福です。もうやって来た、だんだん近づいてくる。僕にはもう、その足音がきこえる。よしんば、僕たちにそれが見つからず、ああこれだと悟る時がないにしても、それがなんです? 誰かが見つけますよ!
ワーリャの声 アーニャ! どこにいるの?
トロフィーモフ またワーリャだ! (忌々《いまいま》しそうに)厭になるなあ、まったく。
アーニャ かまわないわ。川のほうへ行きましょうよ。あすこはよくってよ。
トロフィーモフ 行きましょう。(ふたり歩きだす)
ワーリャの声 アーニャ! アーニャ!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――幕――
[#改ページ]

     第三幕

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アーチで奥の広間と区切られた客間。シャンデリアがともっている。次の間で、ユダヤ人の楽団の演奏がきこえる。二幕目に話に出たあれである。宵《よい》。広間ではグラン・ロン([#ここから割り注]訳注 大円舞[#ここで割り注終わり])の最中。やがて≪Promenade《プロムナード》 〔a`〕《ア》 une《ユヌ》 paire《ペール》!≫([#ここから割り注]訳注 一組ずつ行進![#ここで割り注終わり])というシメオーノフ=ピーシチクの掛声がして、順々に舞台へ出てくる。――先頭の組はピーシチクとシャルロッタ、二番目はトロフィーモフとラネーフスカヤ夫人、三番目はアーニャと郵便官吏、四番目はワーリャと駅長、等々。ワーリャは忍び泣きに泣いており、踊りながら涙をふく。最後の組にドゥニ
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