、くたくたです! (ガーエフに)あなたは婆《ばば》あだ、まるで!
ガーエフ なんとね?
ロパーヒン 婆あですよ! (行こうとする)
ラネーフスカヤ (おびえて)いいえ、行かないでちょうだい。ここにいて、ねえ。後生だから。何か考えつくかもしれないもの!
ロパーヒン 今さら、なんの考えることが!
ラネーフスカヤ 行かないで、お願い。あなたがいると、とにかく気がまぎれるわ。……(間)わたし、しょっちゅう、何かあるような気がしているの――今にもわたしたちの頭の上に、家《うち》がどさりと崩れてきでもしそうな。
ガーエフ (沈思のていで)空《から》クッションで隅《すみ》へ。……ひねって真ん中へ……
ラネーフスカヤ わたしたち、神さまの前に、あんまり罪を作りすぎたのよ……
ロパーヒン なんです、罪だなんて……
ガーエフ (氷砂糖を口に入れて)世間じゃ、わたしが全財産を、氷砂糖でしゃぶりつくしたと言っているよ……(笑う)
ラネーフスカヤ ああ、わたし罪ぶかい女だわ。……まるで気ちがいみたいに、方図もなくお金を使いまわす癖がある上に、借金するほか能のない男にとついだんです。その夫は、シャンパンがもとで死にました――お酒に目のない人でしたからね。そのうえまた不幸なことに、わたしはほかの男を恋して、一緒になったの。すると、ちょうどその時、――これが最初の天罰で、真っ向からぐさりと来たのが、――ほら、あすこの川で……坊やが溺《おぼ》れ死んだことでした。そこでわたしは、外国へ発《た》ったの。発ちっぱなしで、もう二度と帰ってはこまい、あの川も見まい、とおもってね。……わたしが眼《め》をつぶって、無我夢中で逃げだしたのに、あの人[#「あの人」に傍点]は追っかけてきたの……情けも容赦もなくね。わたしがマントンの近くに別荘を買ったのも、あの人[#「あの人」に傍点]があそこに病みついたからで、それから三年というもの、わたしは夜《よ》も日もホッとするひまがなかった。病人にいびり抜かれて、心がカサカサになってしまいました。とうとう去年、借金の始末に別荘が人手にわたってしまうと、わたしはパリへ行きました。そこで、わたしから搾《しぼ》れるだけ搾りあげた挙句《あげく》、あの人はわたしを捨てて、ほかの女と一緒になったの。わたし毒をのもうとしました。……われながら浅ましい、世間に顔向けならない気がしてね。……ところが、急に帰りたくなったの――ロシアへ、生れ故郷へ、ひとり娘のところへね。……(涙をふく)神さま、ああ神さま、どうぞお慈悲で、この罪ぶかい女をお赦《ゆる》しくださいまし! この上の罰は、堪忍《かんにん》してくださいまし! (ポケットから電報を出して)今日、パリから来たの。……赦してくれ、帰って来てくれ、ですって。……(電報を引裂く)どこかで音楽がきこえるようね。(耳を澄ます)
ガーエフ あれは、ここの有名なユダヤ人の楽団だよ。ほら覚えてるだろう。バイオリンが四つに、フルートとコントラバスさ。
ラネーフスカヤ あれ、まだあるの? なんとかあれを呼んで、夜会を開きたいものね。
ロパーヒン (耳をすます)聞えないな……(小声で口ずさむ)「金《かね》のためならドイツっぽうは、ロシア人|化《ば》かしてフランス人に変える」(笑う)いや、きのうわたしが劇場で見た芝居といったら、じつに滑稽《こっけい》でしたよ。
ラネーフスカヤ ちっとも滑稽じゃないのよ、きっと。あんたは芝居なんか見ないで、せいぜい自分を眺《なが》めたほうがよくってよ。なんてあんたの暮しは、不趣味なんでしょう、よけいなおしゃべりばかりして。
ロパーヒン そりゃそうです。正直のはなし、われわれの暮しは馬鹿げています。……(間)うちの親父《おやじ》はどん百姓で、アホーで、わからず屋で、わたしを学校へやってもくれず、酔っぱらっちゃ殴りつけるだけでした――それも棒っきれでね。底を割って言えば、わたしもご同様、アホーで、でくのぼうなんです。何一つ習ったことはなし、字を書かしたらひどいもんで、とても人さまの前には出せない豚の手ですよ。
ラネーフスカヤ 結婚しなくちゃいけないわ、あなたは。
ロパーヒン なるほど。……そりゃそうです。
ラネーフスカヤ うちのワーリャはどう? いい子ですよ。
ロパーヒン なるほど。
ラネーフスカヤ あの子は百姓のうちから貰《もら》われてきて、あのとおりの働きもんだし、第一あなたを愛していますわ。それにあんただって、とうからお好きなんだし。
ロパーヒン そりゃまあ、わたしも嫌いじゃありません。……いい娘さんです。(間)
ガーエフ わたしを銀行へ世話しよう、と言ってくれる人があるんだがね。年収六千というんだが……。聞いたかね?
ラネーフスカヤ 柄《がら》でもないわ! まあ、じっとしてらっしゃい……
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フィールス登場。外套をもってきたのである。
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フィールス (ガーエフに)さあさ、旦那さま、お召しになって。じめじめして参りましたよ。
ガーエフ (外套を着る)お前には閉口だよ、爺《じい》や。
フィールス あきれたお人だ。……今朝だって、黙ってふらりとお出かけにはなるし。(彼をじろじろ眺めまわす)
ラネーフスカヤ なんて年をとったの、お前は。ええフィールス!
フィールス なんと仰しゃいましたので?
ロパーヒン お前さんがひどく老《ふ》けたと仰しゃるんだよ!
フィールス 長生きしましたからな。いつだったか、嫁をとれと言われた時にゃ、あなたのお父さまもまだこの世に生れておいでになりませんでしたよ。……(笑う)解放令([#ここから割り注]訳注 一八六一年に公布された農奴解放令[#ここで割り注終わり])が出た時にゃ、わたしはもう下男頭になっておりました。あの時わたしは、自由民になるのはご免だと申して、引きつづきご奉公をいたしましたよ。……(間)当時は、忘れもしませんが、みんな面白《おもしろ》おかしくやっておりましたよ。何が面白いのか、自分たちもわからずにね。
ロパーヒン 昔はまったく好《よ》かったよ。とにかく、存分ひっぱたいたからなあ。
フィールス (よく聞きとれずに)そりゃそうとも。昔は、旦那あっての百姓、百姓あっての旦那でしたものねえ。それが今じゃ、てんでんばらばらで、何がなんだかわかりはしねえ。
ガーエフ ちょっと待った、フィールス。あすわたしは、町へ出かけなければならん。ある将軍に引合わせてくれるという約束なんだ。その人が、手形で融通してくれそうなんでね。
ロパーヒン なあに物になりゃしませんよ。利子だって払えるもんですか、まあ安心してらっしゃい。
ラネーフスカヤ このひと寝言を言ってるのよ。将軍なんて、いるものですか。
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トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ登場。
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ガーエフ さあ、連中がやってきた。
アーニャ ママがいるわ。
ラネーフスカヤ (優しく)おいで、さ、こっちへ。……二人とも、いい子ね……(アーニャとワーリャを抱く)わたしがどんなにあなたがたを愛してるか、わかってくれたらねえ。ならんでお坐《すわ》り、ほらね、こう。
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みなみな腰をおろす。
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ロパーヒン わが万年大学生先生は、いつもお嬢さんがたと一緒だね。
トロフィーモフ 君の知ったことじゃない。
ロパーヒン この人は、そろそろ五十になるというのに、相変らずまだ大学生だ。
トロフィーモフ 愚劣な冗談はいい加減にしたまえ。
ロパーヒン 何を怒るんだね、変ってるなあ?
トロフィーモフ ほっといてくれったら。
ロパーヒン (笑う)ところで一つ伺うけれど、君は僕《ぼく》のことを、なんと思ってるかね?
トロフィーモフ 僕はね、ロパーヒン君。こう思ってますよ――あんたは金持だ、おっつけ百万長者になるだろう。新陳代謝の意味では、猛獣が必要だ。なんでも手当り次第、食っちまうやつがね。君の存在理由も、要するにそれさ。
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一同わらう。
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ワーリャ ねえペーチャ、あんたは遊星《ほし》の話でもしたほうが似合うわ。
ラネーフスカヤ それよか、どう、きのうの話の続きをしたら。
トロフィーモフ なんの話でしたっけ?
ガーエフ 人間の誇りのことさ。
トロフィーモフ きのうは、長いこと議論したけれど、けっきょく結論は出ませんでしたね。あなたの言われる意味で行くと、人間の誇りなるものには、何か神秘的なところがありますね。まあそれも、一説として正しいかも知れません。がしかし率直に、虚心坦懐《きょしんたんかい》に判断してみるとです、そもそもその誇りなるものが怪しいと言わざるを得ない。げんに人間が生理的にも貧弱にできあがっており、その大多数が粗野で、愚かで、すこぶるみじめな境涯《きょうがい》にある以上、誇りとかなんとかいっても、なんの意味があるでしょうか。自惚《うぬぼ》れはいい加減にして、ただ働くことですよ。
ガーエフ どっちみち死ぬのさ。
トロフィーモフ わかるもんですか? 第一、死ぬとは一体なんでしょう? もしかすると、人間には百の感覚があって、死ぬとそのうちわれわれの知っている五つだけが消滅して、のこる九十五は生き残るのかも知れない。
ラネーフスカヤ なんてお利口さんなんでしょう、ペーチャ! ……
ロパーヒン (皮肉に)おっそろしくね!
トロフィーモフ 人類は、しだいに自己の力を充実しつつ、進歩して行きます。今は人知の及びがたいものでも、いつかは身近な、わかり易《やす》いものになるでしょう。ただそのためには、働かなければならない。真理を探求する人たちを、全力をあげて援助しなければならんのです。今のところ、わがロシアでは、ごく少数の人が働いているだけで、僕の知っているかぎりインテリ〔ゲンツィヤ〕の大多数は、何一つ求めもせず、何一つしもせず、差当り勤労に適しません。インテリなどと自称しながら、召使は「きさま」呼ばわりする、百姓は動物あつかいにする、ろくろく勉強もせず、何一つ真面目《まじめ》には読まず、なんにもせずに、ただ口先で科学を云々《うんぬん》するばかり、芸術だってろくにわかっちゃいない。みんな真面目くさって、さも厳粛な顔つきをして、厳粛なことばかり口にし、哲学をならべているが、そ[#「そ」に「*」の傍記]の一方かれら一人一人の眼の前では、労働者たちがひどい物を食い、一部屋に三十人四十人と、枕《まくら》もしないで寝ている。([#ここから割り注]訳注 *以下は上演当時の検閲のため削除されたので、一九〇四年の初版本には、次のようにぼかされていた。――「その一方、われわれの大多数、百中の九十九までが、野蛮人みたいな暮しをして、何かといえば――すぐぶんなぐる、罵倒する、ひどい物を食って、息のつまるような汚ない所に寝て」[#ここで割り注終わり])どこもかしこも南京虫と、鼻をつく悪臭と、ひどい湿気と、道徳的腐敗ばかりです。……で、われわれのやる麗々しい会話はみんな、ただ自分や他人の眼をくらまさんためであることは、言わずして明らかです。ひとつ教えていただきたい、――あれほどやかましく喋々《ちょうちょう》されている託児所は、一体どこにあるんです? 読書の家は、どこにあります? それは小説に出てくるだけで、実際は全然ありゃしない。あるのはただ、泥《どろ》んこと、俗悪と、アジア的野蛮だけだ。……僕は、真面目くさった顔つきが、身ぶるいするほど嫌《きら》いです。真面目くさった会話にも、身ぶるいが出る。いっそ黙っていたほうがましですよ。
ロパーヒン いや、わたしはね、毎朝四時すぎに起きだして、朝から晩まで働きづめでしょっちゅう自分や他人の金を扱っているが、見れば見るほど、まわりの人間が厭《いや》になるね。何かちょいと新
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