が一つ。ガーエフの田舎屋敷へ通じる道が見える。片側に、高くそびえたポプラが黒ずんでいる。そこから桜の園がはじまるのだ。遠景に電信柱の列。さらに遥《はる》か遠く地平線上に、大きな都会のすがたがぼんやり見える。それは、よっぽど晴れわたった上天気でないと見えないのだ。まもなく日の沈む時刻。

シャルロッタ、ヤーシャ、ドゥニャーシャが、ベンチにかけている。エピホードフはそばに立って、ギターを弾いている。みんな思い沈んで坐《すわ》っている。シャルロッタは古いヒサシ帽をかぶり、肩から銃をおろして、革ひもの留金をなおしにかかる。
[#ここで字下げ終わり]

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シャルロッタ (思案のていで)わたし、正式のパスポートがないもので、自分が幾つなのか知らないの。それでいつも若いような気がしているわ。まだ小娘だったころ、お父つぁんとおっ母さんは市《いち》から市《いち》へ渡り歩いては、見世物を出していたの、なかなか立派なものだった。わたしは|サルト・モルターレ《とんぼがえり》をやったり、いろんな芸当をやったものよ。お父つぁんもおっ母さんも死んでしまうと、あるドイツ人の奥さんがわたしを引取って、勉強させてくれた。そう。やがて大きくなって、家庭教師になった。だが一たい自分が、どこの何者なのか――さっぱり知らないの。……両親がどういう人だったか、正式の夫婦だったかどうか……それも知らない。(ポケットからキュウリを出してかじる)なんにも知らないわ。(間)いろいろ話もしたいけれど、話相手もなし……。わたしには誰《だれ》もいないんだもの。
エピホードフ (ギターを弾きながら歌う)
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浮世を捨てしこの身には
友もかたきも何かせん……
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マンドリンを弾くのは、いいもんだなあ!
[#ここで字下げ終わり]
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ドゥニャーシャ それはギターよ、マンドリンじゃないわ。(ふところ鏡を見ながら白粉《おしろい》をはたく)
エピホードフ 恋に狂った男にとっちゃ、これもマンドリンさね。……(口ずさむ)
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たがいの恋の炎もて
胸もえ立ちてあるならば……

ヤーシャ、声をあわせる。
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シャルロッタ すごい歌い方だこと、この人たち……ふッ! 山犬みたいだ。
ドゥニャーシャ (ヤーシャに)それにしても、外国へ行くなんて、ほんとにいいわねえ。
ヤーシャ そりゃ、もちろんさ。あえて異論は唱えませんねえ。(あくびをして、葉巻を吸いはじめる)
エピホードフ わかりきった事さ。外国じゃ総《すべ》てが、とうの昔に完全なコンプリート([#ここから割り注]訳注 原語は Complexion に当る外来語で「体格」の意味。それを「完成」の意味に使っているおかし味。以下エピホードフの半可通ぶりは続出する[#ここで割り注終わり])に達してますからね。
ヤーシャ もちろんね。
エピホードフ 僕《ぼく》は進歩した人間で、いろんな立派な本を読んでいるが、それでいてどうしても会得《えとく》できんのは、結局ぼくが何を欲《ほっ》するか、つまりその傾向なんですよ――生くべきか、それとも自殺すべきか、つまり結局それなんだが、にもかかわらず僕は、ピストルは常に携帯していますよ。そらね……(ピストルを出して見せる)
シャルロッタ やっと済んだ。どれ行こうかな。(銃を肩にかける)ねえエピホードフ、あんたは大そう頭のいい、大そうおっかない人だことねえ。さだめし女の子が、夢中になって惚《ほ》れこむだろうさ。ブルルル! (行きかける)才子とか才物とかいった手合いは、みんなこうしたお馬鹿《ばか》さんばかりさ。話相手なんか誰もいやしない。……しょっちゅう独り、独りぼっち、わたしにゃ誰もいないのさ……そういう私が何者か、なんで生れてきたのか、それもわかったものじゃない……(ゆっくり退場)
エピホードフ つまり結局ですな、ほかの問題はさておいて、自分一個のことに関するかぎり、ともあれ僕はつぎのごとく言わざるを得んのですよ――運命が僕を遇することの無慈悲残忍なる、あらしが小舟をもてあそぶに異ならん、とね。かりに一歩をゆずって、この僕の考えが間違っているとすれば、では一体なぜ、今朝ぼくが目をさましてみると、まあ一例として言えばですな、おっそろしく大きな蜘蛛《くも》が、僕の胸のうえに乗っかっていたんでしょう。……こんなやつがね(両手で示す)。同様にして、クワスでノドをうるおそうと思って手にとると、またしても、いやはや、たとえば油虫といったたぐいの、極度に無礼千万なやつがはいっている。(間)あんたはバックル([#ここから割り注]訳注 十九世紀イギリスの文明史家[#ここで割り注終わり])を読んだことがありますか? (間)じつはね、ドゥニャーシャさん、ほんの二言三言、御意を得たいことがあるんですがね。
ドゥニャーシャ どうぞ。
エピホードフ それが実は、さし向いでお願いしたいんですが……(ため息をつく)
ドゥニャーシャ (当惑して)そう、いいわ……でもその前に、わたしの長外套《がいとう》を持ってきてくださらない。……洋服箪笥《ようふくだんす》のそばにあるわ。……すこし、じめじめしてきた……
エピホードフ いや、かしこまりました……持って参りましょう。……さあこれで、このピストルをどうしたらいいか、やっとわかったぞ。……(ギターを取りあげ、軽く弾きながら退場)
ヤーシャ 二十二の不仕合せか! ばかなやつだよ、ここだけの話だが。(あくび)
ドゥニャーシャ ピストル自殺なんかされたら困るわねえ。(間)あたし、このごろ落ちつきがなくなって、しょっちゅう胸さわざがするの。ほんの小娘のころから、お屋敷へあがったもんだから、今じゃしもじもの暮しを忘れてしまって、手だってほらこんなに白くて、まるでお嬢さんみたい。気持まで華奢《きゃしゃ》になって、そりゃデリケートで、上品で、なんにでもびくびくするの。……とっても怖いのよ。だからヤーシャ、もしもあんたに裏切られでもしたら、あたし神経がどうかなってしまうことよ。
ヤーシャ (キスしてやって)可愛《かわい》いキュウリさん! もちろん娘というものは、自分を忘れたらおしまいだ。だから僕が何より嫌《きら》いなのは、身もちのわるい娘さんさ。
ドゥニャーシャ あたし、あんたが大好き。教養があって、どんな理屈だってわかるんだもの。(間)
ヤーシャ (あくびをして)そうさな。……僕に言わせりゃ、こうさ――娘さんが誰かを好きになったら、つまりふしだらなんだな。(間)きれいな空気のなかで、葉巻をふかすのはいい気持だなあ。……(きき耳を立てて)誰か来るぞ。……ありゃ奥さんがただ……

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ドゥニャーシャは、いきなり彼を抱擁する。
[#ここで字下げ終わり]

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ヤーシャ うちへ帰りなさい、川へ水浴びに行ったような顔をして、こっちの小径《こみち》から行きたまえ。うっかり出くわそうもんなら、僕がさも君と逢引《あいびき》してたように思われるからな。そいつはたまらんからなあ。
ドゥニャーシャ (そっと咳《せき》をする)葉巻のけむで、あたし頭痛がしてきたわ。……(退場)

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ヤーシャは居残って、礼拝堂のそばに坐る。ラネーフスカヤ夫人、ガーエフ、ロパーヒン登場。
[#ここで字下げ終わり]

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ロパーヒン 最後の肚《はら》をきめて頂きたいですな、――時は待っちゃくれません。問題はなんにもありゃしない。この土地を別荘地として出すのに、ご賛成かどうか? 否《いや》か応か、一こと返事してくださればいいんです。たった一言!
ラネーフスカヤ 誰だろう、ここで嫌《いや》らしい葉巻をふかすのは! (腰をおろす)
ガーエフ 鉄道が敷けてから、便利になったものさ。(腰をおろす)こうして町へ出かけて、ひる飯をやってこられるんだからな……黄玉は真ん中へ! 何はともあれ家《うち》へ行って、一勝負やりたいもんだが……
ラネーフスカヤ まだ大丈夫ですよ。
ロパーヒン ね、ほんの一言! (哀願するように)ねえ、どうかお返事を!
ガーエフ (あくびまじりに)なんだね、そりゃ?
ラネーフスカヤ (巾着《きんちゃく》をのぞいて)昨日はお金ずいぶん沢山あったのに、今日はからっきしないわ。ワーリャは可哀《かわい》そうに、なんとか切りつめようとして、わたしたちにはミルクのスープを出し、勝手もとじゃ年寄り連中にエンドウ豆ばかり食べさせてるというのに、わたしは何やら訳もわからない無駄《むだ》づかいをしている。……(巾着をとり落す。金貨がばらばらこぼれる)あら、こぼれちまった……(無念の思い入れ)
ヤーシャ ご免ください、ただ今ひろって差上げます。(金貨をひろう)
ラネーフスカヤ ご苦労さん、ヤーシャ。それにわたし、なんだってお午《ひる》なんか食べに行ったんだろう。……あなたご推奨のあのちゃちなレストラン。音楽つきだかなんだか知らないけれど、テーブル・クロスがシャボンくさかったわ。……おまけに、なぜあんなに沢山のむことがあるの、ええリョーニャ? なぜ、あんなにどっさり食べたり、しゃべり散らしたりすることがあるの? 今日もあのレストランで、あんたは散々またおしゃべりをして、それがみんな、とんちんかんだったじゃないの。七〇年代([#ここから割り注]訳注 一八七〇年代。ナロードニキー運動の全盛時代[#ここで割り注終わり])がどうしたの、デカダンがどうのって。しかも相手は誰だったの? 給仕をつかまえて、デカダン論をなさるなんて!
ロパーヒン なるほど。
ガーエフ (片手を振って)わたしのあの癖は、とても直らんよ。とても駄目だ……(癇癪《かんしゃく》まぎれにヤーシャに)なんという奴《やつ》だ、しょっちゅう人の前をちらちらしおって……
ヤーシャ (笑う)わたしゃ、旦那《だんな》の声をきくと、つい笑いたくなるんで。
ガーエフ (妹に)わたしが出てくか、それともこいつが……
ラネーフスカヤ あっちへおいで、ヤーシャ、さ早く……
ヤーシャ (ラネーフスカヤ夫人に巾着をわたす)ただ今まいります。(やっと噴きだすのをこらえて)はい、ただ今……(退場)
ロパーヒン お宅の領地は、金満家のデリガーノフが買おうとしています。競売当日は、大将自身が出馬するという話です。
ラネーフスカヤ どこでお聞きになって?
ロパーヒン 町で、もっぱらの評判です。
ガーエフ ヤロスラーヴリの伯母さんから、送ってよこす約束なんだが、いつ幾ら送ってくれるつもりか、それがわからん……
ロパーヒン 幾ら送ってよこされるでしょうかな? 十万? それとも二十万?
ラネーフスカヤ そうね……一万か――せいぜい一万五千、それで恩にきせられて。
ロパーヒン 失礼ですが、あなたがたのような無分別な、世事にうとい、奇怪千万な人間にゃ、まだお目にかかったことがありません。ちゃんとロシア語で、お宅の領地が売りに出ていると申しあげているのに、どうもおわかりにならんようだ。
ラネーフスカヤ 一体どうしろと仰《おっ》しゃるの? 教えてちょうだい、どうすればいいの?
ロパーヒン だから毎日、お教えしてるじゃありませんか。毎日毎日、ひとつ事ばかり申しあげていますよ。桜の園も、宅地も何も、別荘地として貸しに出さなければならん、それを今すぐ、一刻も早くしなければならん、――競売はつい鼻の先へ迫っている、とね! いいですか! 別荘にするという最後の肚をきめさえすれば、金は幾らでも出す人があります、それであなたがたは安泰なんです。
ラネーフスカヤ 別荘、別荘客――俗悪だわねえ、失礼だけど。
ガーエフ わたしも全然同感だ。
ロパーヒン わたしはワァッと泣きだすか、どなりだすか、それとも卒倒するかだ。とても堪《たま》らん! あなたがたのおかげで
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