ャーシャ。
みなみな客間を一巡して広間へ。ピーシチクの掛声――≪Grand《グラン》 rond《ロン》, balancez《バランセ》!≫([#ここから割り注]訳注 大円陣、みぎ左へ![#ここで割り注終わり])≪Les《レ》 |〔cavaliers a`〕《カヴァリエザ》 genoux《ジュヌー》 et《エ》 remerciez《ルメルシェ》 vos《ヴォ》 dames《ダーム》!≫([#ここから割り注]訳注 騎士はひざまずいて、貴婦人に謝意を表わす![#ここで割り注終わり])

フィールスが燕尾服《えんびふく》すがたで、炭酸《ゼルテル》水を盆にのせて持って出る。客間にピーシチクとトロフィーモフ登場。
[#ここで字下げ終わり]

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ピーシチク わたしはどうも多血質でね、もう二度も卒中にやられているもんで、踊りはどだい無理なんだが、下世話にもいうとおり、おつきあいなら吠《ほ》えないまでも、せめて尻尾《しっぽ》を振るがよい――だからな。丈夫なことといったら、わたしは馬もはだしさ。わたしの亡《な》くなった親父《おやじ》は、剽軽《ひょうきん》な人だったが、――天国に安らわせたまえ――うちの家系のことで、こんなことを言っていたっけ。このシメオーノフ=ピーシチクという古い家柄《いえがら》は、どうやらあのカリグラ皇帝([#ここから割り注]訳注 ローマ三代目の皇帝。暴君で、自分の愛馬に元老院の議席を与えたりした[#ここで割り注終わり])が元老院の議席につけた例の馬から出ているらしい、とさ。……(腰かける)だが、困ったことには、金がない! かつえた犬には肉こそ黄金《こばん》、といってな。……(いびきをかき、すぐまた目を覚ます)わたしもそれさ……金のことしか頭にないのさ……
トロフィーモフ そう言えば、あなたの格好には、実際なにか馬に通ずるところがありますね。
ピーシチク なあに……馬はいい獣だ……だいいち売れるからな……

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となりの部屋で、玉突きの音がする。広間のアーチの下に、ワーリャが姿を見せる。
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トロフィーモフ (からかって)マダム・ロパーヒン! マダム・ロパーヒン! ……
ワーリャ (ムッとして)禿《は》げの旦那《だんな》!
トロフィーモフ いかにも、僕《ぼく》は禿げの旦那だ、それを誇りとしてるんだ!
ワーリャ (くよくよ案じながら)楽隊をやとったりして、払いはどうするつもりかしら? (退場)
トロフィーモフ (ピーシチクに)あなたが一生のあいだに利子を払う金の工面に費やしたエネルギーが、何かもしほかのことに向けられたとしたら、おそらくあなたはとどのつまり、地球をひっくり返すこともできたろうになあ。
ピーシチク ニーチェがね……哲学者の……誰《だれ》しらぬ者もない、えら物《ぶつ》ちゅうのえら物の……あのすごい知恵者がな、その著述のなかで、にせ札は作ってもいいとか言っているが。
トロフィーモフ あなたは、ニーチェを読んだんですか?
ピーシチク いや、なに。……うちのダーシェンカが話してくれたのさ。ところで現在わたしは、ええ一つ、にせ札でも作ってやろうか、といった土壇場《どたんば》でな。……あさって三百十ルーブリ払わにゃならん……百三十はやっとできたが……(ポケットをさわってみて、あわてて)金がなくなった! 金を落したぞ! (泣き声で)どこへ行ったんだろう? (嬉《うれ》しそうに)ああ、あった、服の裏へもぐりこんでいた。……やれやれ、冷汗が出たわい……

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ラネーフスカヤとシャルロッタ登場。
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ラネーフスカヤ (コーカサスの舞曲を口ずさむ)レオニードは、どうしてこう遅いのだろう? 町で何をしているのかしら? (ドゥニャーシャに)ドゥニャーシャ、楽隊の人にお茶をあげて……
トロフィーモフ 競売はお流れになったんですよ、きっとそうです。
ラネーフスカヤ 楽隊の来たのも折が悪かったし、舞踏会も生憎《あいにく》の時に開いたものだわ。……まあ、いいさ。……(腰かけて、そっと口ずさむ)
シャルロッタ (ピーシチクにカードを一組わたす)さあ、カードを一組あげましたよ。どれか一枚だけ、頭のなかで考えてください。
ピーシチク 考えました。
シャルロッタ では、よく切ってください。大そう結構。こちらへ頂かしてください、おお、いとしいピーシチクさん。一《アイン》、二《ツワイ》、三《ドライ》! さあ、捜してごらんなさい、その札はあなたの脇《わき》ポケットにあります……
ピーシチク (脇ポケットからカードを取りだす)スペードの八、まさにその通り! (驚嘆して)こりゃ、どうだ!
シャルロッタ (手の平にカードを一組のせて、トロフィーモフに)早く言ってください、一ばん上のカードは?
トロフィーモフ なにさ? じゃ、スペードのクイン。
シャルロッタ はい! (ピーシチクに)では? 一ばん上のカードは?
ピーシチク ハートのエース。
シャルロッタ はい! ……(手の平を打つ、カードの一組きえ失《う》せる)さて、今日はなんていいお天気でしょう! (不可思議な女の声が、さながら床下からひびくように答える、――「ええ、ほんとに、いいお天気ですこと、奥さん」)あなたは、なんとも申しぶんのない、わたしの理想の人よ。……(声、――「わたしも、奥さん、あなたが大好きです」)
駅長 (拍手する)よう、腹話術の名人、ブラヴォー!
ピーシチク (驚嘆して)こりゃ、どうだ! いや、あなたは魔女か妖精《ようせい》か、シャルロッタさん……わしはすっかりあんたに惚《ほ》れましたよ……
シャルロッタ 惚れたですって? (肩をすくめて)あなたに恋ができまして? Guter《グータ》 Mensch《メンシ》, aber《アーバ》 schlechter《シレヒタ》 Musikant《ムジカント》.([#ここから割り注]訳注 ドイツ語。「人はいいが音楽は下手」[#ここで割り注終わり])
トロフィーモフ (ピーシチクの肩をたたいて)まったく、なんて馬だろう、あんたは……
シャルロッタ では皆さん、もう一番、手品をご覧に入れます。(椅子《いす》から格子縞《こうしじま》の膝掛《ひざか》けを取る)これは飛びきり極上の羅紗《ラシャ》でございます、これをお売りいたします……(振ってみせる)買いたい方はありませんか?
ピーシチク (驚いて)こりゃどうだ!
シャルロッタ アイン・ツワイ・ドライ! (おろした布をパッと上げる。布のうしろにアーニャが立っている。彼女は膝をかがめて会釈《えしゃく》をして、母親へ走り寄り、抱擁して、満座熱狂のうちに広間へ駆けもどる)
ラネーフスカヤ (拍手して)ブラヴォー、ブラヴォー! ……
シャルロッタ では、もう一番! アイン・ツワイ・ドライ! (布を上げると、うしろにワーリャが立って、おじぎをする)
ピーシチク (驚いて)こりゃ、どうだ!
シャルロッタ はい、おしまい! (布をピーシチクに投げかけ、膝をかがめて会釈し、広間へ走り去る)
ピーシチク (いそいで追いかけながら)この悪者……いやはや! なんという! (退場)
ラネーフスカヤ でも、レオニードはまだね。何を町でぐずぐずしてるんだろう、変だこと! 領地が売れたにしろ、競売がお流れになったにしろ、どっちみちケリがついているはずなのに、なんだっていつまでも知らせてくれないのかしら!
ワーリャ (なだめようと懸命に)伯父さんが落札なすったのよ、きっとですわ。
トロフィーモフ (冷笑的に)なるほどね。
ワーリャ おばあさんから伯父さんへ、委任状が来ましたのよ――おばあさんの名義で買い戻《もど》して、借金は肩代りにするようにって。アーニャのために計らってくだすったんですわ。だからわたし、それが神さまに通じて、伯父さんが落札なさるに違いないと思うの。
ラネーフスカヤ ヤロスラーヴリのおばあさまが、ご自分の名義で領地を買うようにって、送ってくだすったお金は一万五千ルーブリなのよ、――わたしたち信用がないんだわ、――そんなお金じゃ、利子の払いにも足りやしない。(両手で顔をおおう)今日こそ、わたしの運命のきまる日よ、運命の……
トロフィーモフ (ワーリャをからかう)マダム・ロパーヒン!
ワーリャ (怒って)万年大学生! 二度ももう、大学を追い出されたくせに。
ラネーフスカヤ 何をおこるのさ、ワーリャ? この人が、ロパーヒンのことでお前をからかったって、それがなんです? 嫁《い》きたければ――ロパーヒンの嫁になるがいいわ。あれは見どころのある、いい人間だもの。いやなら――嫁《い》かないがいいのさ。誰もお前を、束縛しやしない。……
ワーリャ わたし正直に言えば、このことは真剣に考えていますの。あの人はいい人間で、わたし好きですわ。
ラネーフスカヤ じゃ、嫁《い》ったらいいじゃない。何を待つことがあるの、気が知れないわ!
ワーリャ だって、お母さん、自分であの人に申込みをするわけには行きませんもの。現にこの二年というもの、みんながわたしに、あの人のことを言うの、寄ってたかってね。ところがあの人は、黙っているか、冗談にまぎらしてしまうかですの。それもわかるわ。あの人はますますお金ができて、事業で忙しくて、わたしどころじゃないのよ。もしもわたし、お金があったら、――たとえ少しでも、せめて百ルーブリでもあったら、わたしは何もかもうっちゃって、身をかくしてしまうわ。尼寺へはいってしまうわ。
トロフィーモフ そいつはすばらしい!
ワーリャ (トロフィーモフに)大学生は、も少し利口なものよ! (口調を柔らげて、泣き声で)なんてあなた、風采《ふうさい》が落ちたの、ペーチャ、なんて老《ふ》けてしまったのよ! (もう泣かずに、ラネーフスカヤ夫人に)ただね、こうして仕事をしないでいるのが辛《つら》いのよ、ママ。わたし、一分一秒、何かせずにはいられないの。

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ヤーシャ登場。
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ヤーシャ (やっと笑いをこらえながら)エピホードフが、撞球棒《キュー》を折りました! ……(退場)
ワーリャ なんだってエピホードフがいるの? 誰があれに、玉突きをしろと言いました? あの人たちの気が知れないわ。……(退場)
ラネーフスカヤ あの子をからかわないでね、ペーチャ、ただでさえ、苦労の多い子なんですから。
トロフィーモフ お節介すぎますよ、あの人は、ひとの事にまでくちばしを入れたりして。この夏じゅう、僕もアーニャもじつに悩まされた、――ふたりの間にロマンスでも起りゃしないかと、それがあのひと心配で堪《たま》らないんです。あの人の知ったことですか? おまけに僕は、そんな気振《けぶ》りも見せないのにね。僕はそれほど俗悪じゃありませんよ。われわれは恋愛を超越してるんです!
ラネーフスカヤ じゃ、きっと、わたしは恋愛以下なのね。(はげしい不安に駆られて)レオニードはどうしたんだろう? 領地が売れたかどうか、それだけでもわかればねえ! わたし今度の災難が、あんまり嘘《うそ》みたいだもんだから、何を考えたものやら、見当さえつかずに、ぼおっとしているの。……今にもわたし、大声でわめきだすか……何か馬鹿《ばか》なまねをしそうだわ。わたしを助けて、ペーチャ。何か話をしてちょうだい、ね、何か……
トロフィーモフ 領地が今日売れようと売れまいと――同じことじゃありませんか? あれとはもう、とっくに縁が切れて、今さら元へは戻りません、昔の夢ですよ。気を落ちつけてください、奥さん。いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです。
ラネーフスカヤ 真実をねえ? そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか眼
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