桜の園
――喜劇 四幕――
アントン・チェーホフ
神西清訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)老僕《ろうぼく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百姓|婆《ばあ》さん

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔a`〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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人物
ラネーフスカヤ(リュボーフィ・アンドレーエヴナ)〔愛称リューバ〕 女地主
アーニャ その娘、十七歳
ワーリャ その養女、二十四歳
ガーエフ(レオニード・アンドレーエヴィチ)〔愛称リョーニャ〕 ラネーフスカヤの兄
ロパーヒン(エルモライ・アレクセーエヴィチ) 商人
トロフィーモフ(ピョートル・セルゲーエヴィチ)〔愛称ペーチャ〕 大学生
ピーシチク(ボリース・ポリーソヴィチ・シメオーノフ) 地主
シャルロッタ(イワーノヴナ) 家庭教師
エピホードフ(セミョーン・パンテレーエヴィチ) 執事
ドゥニャーシャ 小間使
フィールス 老僕《ろうぼく》、八十七歳
ヤーシャ 若い従僕
浮浪人
駅長
郵便局の官吏
ほかに客たち、召使たち

 ラネーフスカヤ夫人の領地でのこと
[#改ページ]

     第一幕

[#ここから2字下げ]
いまだに子供部屋と呼ばれている部屋。ドアの一つはアーニャの部屋へ通じる。夜明け、ほどなく日の昇る時刻。もう五月で、桜の花が咲いているが、庭は寒い。明けがたの冷気である。部屋の窓はみなしまっている。

ドゥニャーシャが蝋燭《ろうそく》をもち、ロパーヒンが本を手に登場。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ロパーヒン やっと汽車が着いた、やれやれ。何時だね?
ドゥニャーシャ まもなく二時。(蝋燭を吹き消す)もう明るいですわ。
ロパーヒン いったいどのくらい遅れたんだね、汽車は? まあ二時間はまちがいあるまい。(あくび、のび)おれもいいところがあるよ、とんだドジを踏んじまった! 停車場まで出迎えるつもりで、わざわざここへ来ていながら、とたんに寝すごしちまうなんて……。椅子《いす》にかけたなりぐっすりさ。いまいましい。……せめてお前さんでも起してくれりゃいいのに。
ドゥニャーシャ お出かけになったとばかり思ってました。(耳をすます)おや、もういらしたらしい。
ロパーヒン (耳をすます)ちがう。……手荷物を受けとったり、何やかやあるからな。……(間)ラネーフスカヤの奥さんは、外国で五年も暮してこられたんだから、さぞ変られたことだろうなあ。……まったくいい方《かた》だよ。きさくで、さばさばしててね。忘れもしないが、おれがまだ十五ぐらいのガキだった頃《ころ》、おれの死んだ親父《おやじ》が――親父はその頃、この村に小さな店を出していたんだが――おれの面《つら》をげんこで殴りつけて、鼻血を出したことがある。……その時ちょうど、どうしたわけだか二人でこの屋敷へやって来てね、おまけに親父は一杯きげんだったのさ。すると奥さんは、つい昨日のことのように覚えているが、まだ若くって、こう細っそりした人だったがね、そのおれを手洗いのところへ連れて行ってくれた。それが、ちょうどこの部屋――この子供部屋だったのさ。「泣くんじゃないよ、ちっちゃなお百姓さん」と言ってね、「婚礼までには直りますよ([#ここから割り注]訳注 怪我をした人に言う慰めの慣用句[#ここで割り注終わり])。……」(間)ちっちゃなお百姓か。……いかにもおれの親父はどん百姓だったが、おれはというと、この通り白いチョッキを着て、茶色い短靴《たんぐつ》なんかはいている。雑魚《ざこ》のととまじりさ。……そりゃ金はある、金ならどっさりあるが、胸に手をあてて考えてみりゃ、やっぱりどん百姓にちがいはないさ。……(本をぱらぱらめくって)さっきもこの本を読んでいたんだが、さっぱりわからん。読んでるうちに寝ちまった。(間)
ドゥニャーシャ 犬はみんな、夜っぴて寝ませんでしたわ。嗅《か》ぎつけたんですわね、ご主人たちのお帰りを。
ロパーヒン おや、ドゥニャーシャ、どうしてそんなに……
ドゥニャーシャ 手がぶるぶるしますの。あたし気が遠くなって、倒れそうだわ。
ロパーヒン どうもお前さんは柔弱でいかんな、ドゥニャーシャ。みなりもお嬢さんみたいだし、髪の格好《かっこう》だってそうだ。駄目《だめ》だよ、それじゃ。身のほどを知らなくちゃ。

[#ここから2字下げ]
エピ
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