ホードフが花束をもって登場。背広を着こみ、ひどくギュウギュウ鳴る、ピカピカに磨《みが》きあげた長靴をはいている。はいってきながら花束を落す。
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エピホードフ (花束をひろう)これを庭男がとどけてよこしました。食堂に挿《さ》すようにってね。(ドゥニャーシャに花束をわたす)
ロパーヒン ついでにクワスをおれに持ってきとくれ。
ドゥニャーシャ かしこまりました。(退場)
エピホードフ 今ちょうど明け方の冷えで、零下三度の寒さですが、桜の花は満開ですよ。どうも感服しませんなあ、わが国の気候は。(ため息)どうもねえ。わが国の気候は、汐《しお》どきにぴたりとは行きませんですな。ところでロパーヒンさん、事のついでに一言申し添えますが、じつは一昨日《いっさくじつ》、長靴を新調したところが、いや正真正銘のはなし、そいつがやけにギュウギュウ鳴りましてな、どうもこうもなりません。何を塗ったもんでしょうかな?
ロパーヒン やめてくれ。もうたくさんだ。
エピホードフ 毎日なにかしら、わたしには不仕合せが起るんです。しかし愚痴は言いません。馴《な》れっこになって、むしろ微笑を浮べているくらいですよ。
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ドゥニャーシャ登場、ロパーヒンにクワスを差出す。
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エピホードフ どれ行くとするか。(椅子にぶつかって倒す)また、これだ。……(得意げな調子で)ね、いかがです、口幅ったいことを言うようですが、なんたる回《めぐ》り合せでしょう、とにかくね。……こうなるともう、天晴《あっぱれ》と言いたいくらいですよ! (退場)
ドゥニャーシャ じつはね、ロパーヒンさん、あのエピホードフがあたしに、結婚を申しこみましたの。
ロパーヒン ほほう!
ドゥニャーシャ どうしたらいいのか、困ってしまいますわ。……おとなしい人だけれど、ただ時どき、何か話をしだすと、てんでわけがわからない。聞いていれば面白《おもしろ》いし、情《じょう》もこもっているんだけれど、ただどうも、わけがわからなくってねえ。あたし、あの人がまんざら厭《いや》じゃありませんし、あの人ときたら、あたしに夢中なんですの。不仕合せな人で、毎日なにかしら起るんです。ここじゃあの人のこと、「二十二の不仕合せ」って、からかうんですよ。……
ロパーヒン (きき耳を立てて)さあ、こんどこそお着きらしいぞ……
ドゥニャーシャ お着き! どうしたんでしょう、あたし……からだじゅう、つめたくなったわ。
ロパーヒン ほんとにお着きだ。出迎えに行こう。おれの顔がおわかりかなあ? なにせ五年ぶりだから。
ドゥニャーシャ (わくわくして)あたし倒れそうだわ。……ああ、倒れそうだ!
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二台の馬車が表口へ乗りつける音。ロパーヒンとドゥニャーシャは急いで出て行く。舞台空虚。つづく部屋部屋で、ざわめきがはじまる。ラネーフスカヤ夫人を停車場まで迎えに行った老僕《ろうぼく》フィールスが、杖《つえ》にすがりながら、あたふたと舞台をよこぎる。古めかしいお仕着せに、丈の高い帽子をかぶり、何やら独りごとを言っているが、一言も聞きとれない。舞台うらのざわめきは、ますます高まる。「さあ、こっちから行きましょうよ……」という声。ラネーフスカヤ夫人、アーニャ、鎖につないだ小犬を連れたシャルロッタ、以上みな旅行服で、――それから外套《がいとう》にプラトークすがたのワーリャ、ガーエフ、ピーシチク、ロパーヒン、包みとパラソルを持ったドゥニャーシャ、いろんな荷物をかかえた召使たち――みなみな部屋に通りかかる。
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アーニャ ここを通って行きましょうよ。ねえママ、この部屋なんだか覚えてらっしゃる?
ラネーフスカヤ (嬉《うれ》しそうに、なみだ声で)子供部屋!
ワーリャ なんて寒いんだろう、手がかじかんでしまったわ。(ラネーフスカヤに)あなたのお部屋は、白いほうもスミレ色のほうも、ちゃんと元のままですわ、お母さま。
ラネーフスカヤ 子供部屋、なつかしい、きれいなお部屋……。わたし子供のころ、ここで寝たのよ。……(泣く)今でもわたし、まるで子供みたいだわ。……(兄とワーリャに、それからまた兄にキスする)ワーリャはちっとも変らないのね、相変らず尼さんみたいね。ドゥニャーシャも、わかりましたよ。……(ドゥニャーシャにキスする)
ガーエフ 汽車は二時間もおくれた。え、どうだい? なんてざまだろう?
シャルロッタ (ピーシチクに)わたしの犬は、クルミも食べるのよ。
ピーシチク (呆《あき》れ顔で)へえ、こりゃ驚いた!
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