冬になると、たちまち僕は口が乾《ひ》あがって、病みついて、いらいらして、乞食《こじき》も同然の境涯に落ちこんで、――運命の追うがままに、所きらわずほっつき歩いたもんです! それでもやっぱり僕の心は、夜も昼もたえず、いついかなる瞬間にも、一種なんとも言えぬ予感に満たされていました。僕は幸福を予感します、アーニャ、僕にはもうそれが見える……
アーニャ (もの思わしげに)月が出たわ。

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エピホードフが相変らず同じわびしい歌を、ギターで弾いているのが聞える。月がのぼる。どこかポプラの木のへんで、ワーリャがアーニャをさがしながら、「アーニャ! どこにいるの?」と呼んでいる。
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トロフィーモフ そう、月が出ました。(間)そら、あれが幸福です。もうやって来た、だんだん近づいてくる。僕にはもう、その足音がきこえる。よしんば、僕たちにそれが見つからず、ああこれだと悟る時がないにしても、それがなんです? 誰かが見つけますよ!
ワーリャの声 アーニャ! どこにいるの?
トロフィーモフ またワーリャだ! (忌々《いまいま》しそうに)厭になるなあ、まったく。
アーニャ かまわないわ。川のほうへ行きましょうよ。あすこはよくってよ。
トロフィーモフ 行きましょう。(ふたり歩きだす)
ワーリャの声 アーニャ! アーニャ!
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[#地から2字上げ]――幕――
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     第三幕

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アーチで奥の広間と区切られた客間。シャンデリアがともっている。次の間で、ユダヤ人の楽団の演奏がきこえる。二幕目に話に出たあれである。宵《よい》。広間ではグラン・ロン([#ここから割り注]訳注 大円舞[#ここで割り注終わり])の最中。やがて≪Promenade《プロムナード》 〔a`〕《ア》 une《ユヌ》 paire《ペール》!≫([#ここから割り注]訳注 一組ずつ行進![#ここで割り注終わり])というシメオーノフ=ピーシチクの掛声がして、順々に舞台へ出てくる。――先頭の組はピーシチクとシャルロッタ、二番目はトロフィーモフとラネーフスカヤ夫人、三番目はアーニャと郵便官吏、四番目はワーリャと駅長、等々。ワーリャは忍び泣きに泣いており、踊りながら涙をふく。最後の組にドゥニャーシャ。
みなみな客間を一巡して広間へ。ピーシチクの掛声――≪Grand《グラン》 rond《ロン》, balancez《バランセ》!≫([#ここから割り注]訳注 大円陣、みぎ左へ![#ここで割り注終わり])≪Les《レ》 |〔cavaliers a`〕《カヴァリエザ》 genoux《ジュヌー》 et《エ》 remerciez《ルメルシェ》 vos《ヴォ》 dames《ダーム》!≫([#ここから割り注]訳注 騎士はひざまずいて、貴婦人に謝意を表わす![#ここで割り注終わり])

フィールスが燕尾服《えんびふく》すがたで、炭酸《ゼルテル》水を盆にのせて持って出る。客間にピーシチクとトロフィーモフ登場。
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ピーシチク わたしはどうも多血質でね、もう二度も卒中にやられているもんで、踊りはどだい無理なんだが、下世話にもいうとおり、おつきあいなら吠《ほ》えないまでも、せめて尻尾《しっぽ》を振るがよい――だからな。丈夫なことといったら、わたしは馬もはだしさ。わたしの亡《な》くなった親父《おやじ》は、剽軽《ひょうきん》な人だったが、――天国に安らわせたまえ――うちの家系のことで、こんなことを言っていたっけ。このシメオーノフ=ピーシチクという古い家柄《いえがら》は、どうやらあのカリグラ皇帝([#ここから割り注]訳注 ローマ三代目の皇帝。暴君で、自分の愛馬に元老院の議席を与えたりした[#ここで割り注終わり])が元老院の議席につけた例の馬から出ているらしい、とさ。……(腰かける)だが、困ったことには、金がない! かつえた犬には肉こそ黄金《こばん》、といってな。……(いびきをかき、すぐまた目を覚ます)わたしもそれさ……金のことしか頭にないのさ……
トロフィーモフ そう言えば、あなたの格好には、実際なにか馬に通ずるところがありますね。
ピーシチク なあに……馬はいい獣だ……だいいち売れるからな……

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となりの部屋で、玉突きの音がする。広間のアーチの下に、ワーリャが姿を見せる。
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トロフィーモフ (からかって)マダム・ロパーヒン! マダム・ロパーヒン! ……
ワーリャ (ムッとして)禿《は》げの旦那《だんな》!
トロフィーモ
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