が、急に帰りたくなったの――ロシアへ、生れ故郷へ、ひとり娘のところへね。……(涙をふく)神さま、ああ神さま、どうぞお慈悲で、この罪ぶかい女をお赦《ゆる》しくださいまし! この上の罰は、堪忍《かんにん》してくださいまし! (ポケットから電報を出して)今日、パリから来たの。……赦してくれ、帰って来てくれ、ですって。……(電報を引裂く)どこかで音楽がきこえるようね。(耳を澄ます)
ガーエフ あれは、ここの有名なユダヤ人の楽団だよ。ほら覚えてるだろう。バイオリンが四つに、フルートとコントラバスさ。
ラネーフスカヤ あれ、まだあるの? なんとかあれを呼んで、夜会を開きたいものね。
ロパーヒン (耳をすます)聞えないな……(小声で口ずさむ)「金《かね》のためならドイツっぽうは、ロシア人|化《ば》かしてフランス人に変える」(笑う)いや、きのうわたしが劇場で見た芝居といったら、じつに滑稽《こっけい》でしたよ。
ラネーフスカヤ ちっとも滑稽じゃないのよ、きっと。あんたは芝居なんか見ないで、せいぜい自分を眺《なが》めたほうがよくってよ。なんてあんたの暮しは、不趣味なんでしょう、よけいなおしゃべりばかりして。
ロパーヒン そりゃそうです。正直のはなし、われわれの暮しは馬鹿げています。……(間)うちの親父《おやじ》はどん百姓で、アホーで、わからず屋で、わたしを学校へやってもくれず、酔っぱらっちゃ殴りつけるだけでした――それも棒っきれでね。底を割って言えば、わたしもご同様、アホーで、でくのぼうなんです。何一つ習ったことはなし、字を書かしたらひどいもんで、とても人さまの前には出せない豚の手ですよ。
ラネーフスカヤ 結婚しなくちゃいけないわ、あなたは。
ロパーヒン なるほど。……そりゃそうです。
ラネーフスカヤ うちのワーリャはどう? いい子ですよ。
ロパーヒン なるほど。
ラネーフスカヤ あの子は百姓のうちから貰《もら》われてきて、あのとおりの働きもんだし、第一あなたを愛していますわ。それにあんただって、とうからお好きなんだし。
ロパーヒン そりゃまあ、わたしも嫌いじゃありません。……いい娘さんです。(間)
ガーエフ わたしを銀行へ世話しよう、と言ってくれる人があるんだがね。年収六千というんだが……。聞いたかね?
ラネーフスカヤ 柄《がら》でもないわ! まあ、じっとしてらっしゃい……

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フィールス登場。外套をもってきたのである。
[#ここで字下げ終わり]

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フィールス (ガーエフに)さあさ、旦那さま、お召しになって。じめじめして参りましたよ。
ガーエフ (外套を着る)お前には閉口だよ、爺《じい》や。
フィールス あきれたお人だ。……今朝だって、黙ってふらりとお出かけにはなるし。(彼をじろじろ眺めまわす)
ラネーフスカヤ なんて年をとったの、お前は。ええフィールス!
フィールス なんと仰しゃいましたので?
ロパーヒン お前さんがひどく老《ふ》けたと仰しゃるんだよ!
フィールス 長生きしましたからな。いつだったか、嫁をとれと言われた時にゃ、あなたのお父さまもまだこの世に生れておいでになりませんでしたよ。……(笑う)解放令([#ここから割り注]訳注 一八六一年に公布された農奴解放令[#ここで割り注終わり])が出た時にゃ、わたしはもう下男頭になっておりました。あの時わたしは、自由民になるのはご免だと申して、引きつづきご奉公をいたしましたよ。……(間)当時は、忘れもしませんが、みんな面白《おもしろ》おかしくやっておりましたよ。何が面白いのか、自分たちもわからずにね。
ロパーヒン 昔はまったく好《よ》かったよ。とにかく、存分ひっぱたいたからなあ。
フィールス (よく聞きとれずに)そりゃそうとも。昔は、旦那あっての百姓、百姓あっての旦那でしたものねえ。それが今じゃ、てんでんばらばらで、何がなんだかわかりはしねえ。
ガーエフ ちょっと待った、フィールス。あすわたしは、町へ出かけなければならん。ある将軍に引合わせてくれるという約束なんだ。その人が、手形で融通してくれそうなんでね。
ロパーヒン なあに物になりゃしませんよ。利子だって払えるもんですか、まあ安心してらっしゃい。
ラネーフスカヤ このひと寝言を言ってるのよ。将軍なんて、いるものですか。

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トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ登場。
[#ここで字下げ終わり]

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ガーエフ さあ、連中がやってきた。
アーニャ ママがいるわ。
ラネーフスカヤ (優しく)おいで、さ、こっちへ。……二人とも、いい子ね……(アーニャとワーリャを抱く)わたしがどんなにあなたがたを愛してるか、わかってくれたらね
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