世紀イギリスの文明史家[#ここで割り注終わり])を読んだことがありますか? (間)じつはね、ドゥニャーシャさん、ほんの二言三言、御意を得たいことがあるんですがね。
ドゥニャーシャ どうぞ。
エピホードフ それが実は、さし向いでお願いしたいんですが……(ため息をつく)
ドゥニャーシャ (当惑して)そう、いいわ……でもその前に、わたしの長外套《がいとう》を持ってきてくださらない。……洋服箪笥《ようふくだんす》のそばにあるわ。……すこし、じめじめしてきた……
エピホードフ いや、かしこまりました……持って参りましょう。……さあこれで、このピストルをどうしたらいいか、やっとわかったぞ。……(ギターを取りあげ、軽く弾きながら退場)
ヤーシャ 二十二の不仕合せか! ばかなやつだよ、ここだけの話だが。(あくび)
ドゥニャーシャ ピストル自殺なんかされたら困るわねえ。(間)あたし、このごろ落ちつきがなくなって、しょっちゅう胸さわざがするの。ほんの小娘のころから、お屋敷へあがったもんだから、今じゃしもじもの暮しを忘れてしまって、手だってほらこんなに白くて、まるでお嬢さんみたい。気持まで華奢《きゃしゃ》になって、そりゃデリケートで、上品で、なんにでもびくびくするの。……とっても怖いのよ。だからヤーシャ、もしもあんたに裏切られでもしたら、あたし神経がどうかなってしまうことよ。
ヤーシャ (キスしてやって)可愛《かわい》いキュウリさん! もちろん娘というものは、自分を忘れたらおしまいだ。だから僕が何より嫌《きら》いなのは、身もちのわるい娘さんさ。
ドゥニャーシャ あたし、あんたが大好き。教養があって、どんな理屈だってわかるんだもの。(間)
ヤーシャ (あくびをして)そうさな。……僕に言わせりゃ、こうさ――娘さんが誰かを好きになったら、つまりふしだらなんだな。(間)きれいな空気のなかで、葉巻をふかすのはいい気持だなあ。……(きき耳を立てて)誰か来るぞ。……ありゃ奥さんがただ……
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ドゥニャーシャは、いきなり彼を抱擁する。
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ヤーシャ うちへ帰りなさい、川へ水浴びに行ったような顔をして、こっちの小径《こみち》から行きたまえ。うっかり出くわそうもんなら、僕がさも君と逢引《あいびき》してたように思われるからな。そいつはたまらんからなあ。
ドゥニャーシャ (そっと咳《せき》をする)葉巻のけむで、あたし頭痛がしてきたわ。……(退場)
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ヤーシャは居残って、礼拝堂のそばに坐る。ラネーフスカヤ夫人、ガーエフ、ロパーヒン登場。
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ロパーヒン 最後の肚《はら》をきめて頂きたいですな、――時は待っちゃくれません。問題はなんにもありゃしない。この土地を別荘地として出すのに、ご賛成かどうか? 否《いや》か応か、一こと返事してくださればいいんです。たった一言!
ラネーフスカヤ 誰だろう、ここで嫌《いや》らしい葉巻をふかすのは! (腰をおろす)
ガーエフ 鉄道が敷けてから、便利になったものさ。(腰をおろす)こうして町へ出かけて、ひる飯をやってこられるんだからな……黄玉は真ん中へ! 何はともあれ家《うち》へ行って、一勝負やりたいもんだが……
ラネーフスカヤ まだ大丈夫ですよ。
ロパーヒン ね、ほんの一言! (哀願するように)ねえ、どうかお返事を!
ガーエフ (あくびまじりに)なんだね、そりゃ?
ラネーフスカヤ (巾着《きんちゃく》をのぞいて)昨日はお金ずいぶん沢山あったのに、今日はからっきしないわ。ワーリャは可哀《かわい》そうに、なんとか切りつめようとして、わたしたちにはミルクのスープを出し、勝手もとじゃ年寄り連中にエンドウ豆ばかり食べさせてるというのに、わたしは何やら訳もわからない無駄《むだ》づかいをしている。……(巾着をとり落す。金貨がばらばらこぼれる)あら、こぼれちまった……(無念の思い入れ)
ヤーシャ ご免ください、ただ今ひろって差上げます。(金貨をひろう)
ラネーフスカヤ ご苦労さん、ヤーシャ。それにわたし、なんだってお午《ひる》なんか食べに行ったんだろう。……あなたご推奨のあのちゃちなレストラン。音楽つきだかなんだか知らないけれど、テーブル・クロスがシャボンくさかったわ。……おまけに、なぜあんなに沢山のむことがあるの、ええリョーニャ? なぜ、あんなにどっさり食べたり、しゃべり散らしたりすることがあるの? 今日もあのレストランで、あんたは散々またおしゃべりをして、それがみんな、とんちんかんだったじゃないの。七〇年代([#ここから割り注]訳注 一八七〇年代。ナロードニキー運動の全盛時代
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