そう……(間)
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ドアの向うで忍び笑い、ひそひそ声、やがてワーリャ登場。
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ワーリャ (長いこと、あれこれと荷物を調べる)おかしいわ、どうしても見つからない……
ロパーヒン 何がないんですか?
ワーリャ 自分でしまいこんだくせに、覚えがないんですの。(間)
ロパーヒン あなたはこれからどうされます、ワルワーラ([#ここから割り注]訳注 ワーリャの正式の名[#ここで割り注終わり])さん?
ワーリャ わたし? ラグーリンのところへ行きます。……あすこの家政を見ることになりましたの……女の家令とでもいうのかしら。
ロパーヒン ではヤーシネヴォ村ですね? 七十キロもありますよ。(間)いよいよこの家の生活もおしまいになりましたね。……
ワーリャ (荷物を見まわしながら)どこへ行ったんだろう、あれは……もしかすると、長持へ入れたのかもしれない。……ええ、この家の生活もおしまいですわ……もう二度と返っては来ませんわ……
ロパーヒン わたしはこれからすぐ、ハリコフへ発ちます……この汽車でね。どうも仕事が多くてね。この屋敷うちには、エピホードフを置いておきます。……あの男を雇ったのでね。
ワーリャ あら、そう!
ロパーヒン 去年の今ごろは、もう雪がふっていました。おぼえておいでですか。ところが今は、おだやかで、日が照っています。ただ、寒いには寒いですな。……零下三度ぐらいでしょうな。
ワーリャ わたし見ませんでした。(間)それに、うちの寒暖計はこわれていますから……(間)
戸外の声 (ドアの口で)ロパーヒンさん! ……
ロパーヒン (とうからこの呼び声を待っていたかのように)ああ、今すぐ! (急いで退場)
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ワーリャは床に坐《すわ》って、衣服の包みに頭をのせ、静かにむせびなく。ドアがあいて、そっとラネーフスカヤ夫人がはいってくる。
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ラネーフスカヤ どうだったの? (間)もう行かなくちゃ。
ワーリャ (もう泣きやんでいて、眼をふく)ええ、時間ですわ、ママ。わたし今日のうちに、ラグーリンのところへ着けると思うわ。汽車に乗りおくれさえしなければね……
ラネーフスカヤ (ドアの口へ)アーニャ、支度はいいの?
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アーニャ、少しおくれてガーエフ、シャルロッタ登場。ガーエフは頭巾《ずきん》のついた暖かい外套《がいとう》を着ている。召使たちや馭者《ぎょしゃ》たちが集まる。エピホードフは荷物の世話をやく。
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ラネーフスカヤ さあ、もうこれで発てるわ。
アーニャ (嬉《うれ》しそうに)出発だわ!
ガーエフ 親愛なる諸君、敬愛おくあたわざる友人諸君! いま永遠にこの家を去るに臨んで、果して口をつぐんでおられましょうか。告別のため、今わたくしの全幅を領している感慨を、ここに吐露せずにおられましょうか……
アーニャ (哀願するように)伯父さま!
ワーリャ 伯父さん、およしなさいったら!
ガーエフ (しょげて)黄玉を空《から》クッションで真ん中へ……。黙るよ。……
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トロフィーモフ、つづいてロパーヒン登場。
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トロフィーモフ まだですか、皆さん、もう出発の時間ですよ!
ロパーヒン エピホードフ、おれの外套を!
ラネーフスカヤ わたし、もうちょっとだけ坐ってみよう([#ここから割り注]訳注 旅立ちの前に、しばらく腰をおろす習慣がロシア人にある[#ここで割り注終わり])。わたしまるで、今まで一度も、この家の壁がどんなだか、天井がどんなだか、見たことがないみたい。今になってやっと、見ても見飽きない気持で、たまらなく懐《なつ》かしい気持で、眺《なが》めるんだわ……
ガーエフ いまだに覚えてるが、わたしが六つのとき、聖霊降臨《トロイツァ》の日曜日に、わたしがこの窓に腰かけて見ていると、お父さんが教会へ出かけて行ったっけ……
ラネーフスカヤ 荷物はみんな出まして?
ロパーヒン どうやら、みんなです。(外套を着ながら、エピホードフに)いいかい、エピホードフ、あとは宜しく頼むよ。
エピホードフ (しゃがれ声で)ご心配なく、行ってらっしゃいまし。
ロパーヒン 一体どうしたんだ、その声は?
エピホードフ いま水を飲んだ拍子に、何かのみこみましたんで。
ヤーシャ (軽蔑《けいべつ》して)間抜けめ!
ラネーフスカヤ わたしたちが行ってしまうと、ここには人っ子ひとり残らないのねえ……
ロパーヒン 春が来るまではね。
ワ
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