したため、それから長いことぐっすり睡《ねむ》った。
『いやはや馬鹿げきった、ご苦労さまなことだわい』と彼は、目をさまして暗くなった窓を眺めながら思うのだった。もう日が暮れていた。『なんの心算《つもり》か知らんがえらくまあ寝ちまったものさ。さてこのよる夜中に一体どうしようと言うんだい?』
まるで病院みたいな安物の灰色毛布をかけた寝床の上に坐り込んで、彼はさも口惜しげにわれとわが身をからかうのだった。――
『そうらこれがお待ちかねの犬を連れた奥さんさ。……これがお待ちかねのエピソードさ。……まあま御緩《ごゆる》りとなさいまし』
まだその朝のことだったが、停車場で、でかでかと大きな字を並べたポスターが彼の目についた。『芸者《ゲイシャ》』という芝居の初日なのである。彼はそれを思い出したので劇場へ出掛けて行った。
『あの女が初日を観に行くというのは大いにありそうなことだからな』と考えたのである。
劇場は大入りだった。地方の劇場といえばどこもそうだが、ここでもシャンデリヤの上の辺には靄《もや》がたなびいて、聾桟敷《つんぼさじき》ががやがやと沸き立っていた。一列目には幕あき前のひと時を、土地の
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