我ながらさっぱり分からないの。世間でよく魔がさしたって言いますわね。今のわたしがちょうどそれなんですわ、わたしも魔がさしたんですわ」
「たくさん、もうたくさん……」と彼はつぶやいた。
彼は女のじっと据わった怯《おび》えきった眼をつくづく眺め、接吻をしてやったり、小声で優しく宥《なだ》めすかしたりしているうちに、女も少しずつ落ち着いて来て、いつもの快活さを取り戻した。二人とも声を立てて笑うようになった。
やがて彼らが外へ出たとき、海岸通りには人影ひとつなく、町はその糸杉の木立ともどもひっそり死に果てたような様子だった。が海は相かわらず潮騒《しおさい》の音を立てて、岸辺に打ち寄せていた。艀舟《はしけ》が一艘《いっそう》、波間に揺れていて、その上でさも睡《ねむ》たそうに小さな灯が一つ明滅していた。
二人は辻馬車をひろって、*オレアンダへ出掛けた。
「いま僕は階下《した》の控室で、君の苗字がわかっちまった。黒板にフォン=ヂーデリッツとしてあったっけ」とグーロフは言った。「君の御主人はドイツの人?」
「いいえ、あの人のたしかお祖父《じい》さんがドイツ人でしたわ。けれどあの人は正教徒ですの」
前へ
次へ
全43ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング