つは空想を描くのだった。
 アンナ・セルゲーヴナと一緒に一人の若い男がはいって来て、並び合って席についた。それはちょっぴり頬髯《ほおひげ》を生やした、おそろしく背の高い、猫背の男だった。一あしごとに首を縦にふるので、まるでのべつにお辞儀をしているように見える。多分これが、彼女があの晩ヤールタで悲痛な感情の発作に駆られて、従僕と失礼な呼び方をした良人なのだろう。なるほどそう言えば、そのひょろ長い恰好《かっこう》や、頬髯や、ちょっぴり禿《は》げ上がった額《ひたい》ぎわなどには、一種こう従僕めいたへりくだった所があるし、おまけに甘ったるい微笑を浮かべて、ボタン孔にはちょうど従僕の番号みたいに、学位章か何かが光っていた。
 初めての幕間《まくあい》に良人は煙草《たばこ》をのみに出て行って、彼女は席に居のこった。やはり平土間に席をとっていたグーロフは、彼女の傍へ歩み寄ると、無理に笑顔をつくりながら顫《ふる》える声でこう言った。――
「ご機嫌よう」
 彼女は彼の顔を見るとさっとばかり蒼《あお》ざめたが、やがてもう一ぺん、わが眼が信じられないといった風に、恐る恐る彼の方をふり仰ぎ、両手のうちにぎゅっと扇を柄付眼鏡《ロルネット》もろとも握りしめた。てっきりそれは、気を失うまいと自分を相手に闘っているものらしい。二人とも無言だった。彼女は坐ったままだったし、彼は彼で、女のうろたえように度胆を抜かれて、隣へ腰をおろす決心がつかずに立っていた。調子を合わせるヴァイオリンとフルートの音がしだすと、彼はまるでそこらじゅうのボックスから見つめられているような気がして、急にそら恐ろしくなった。がそのとき彼女はつと席を立つと、足早に出口を指して行く。彼もそのあとを追って、それから二人は唯もうでたらめに、廊下から階段へ階段から廊下へと昇ったり降りたりして行った。二人の眼のまえには、法官服や教師の服や御料地事務官の服をつけた人々が、思い思いの徽章《きしょう》を胸に、絶えずちらちらしていた。婦人連の姿や、外套掛けにさがった毛皮外套も眼にちらつき、かと思うと吹き抜け風がむっと吸いさしの煙草の臭《にお》いを吹きつけたりした。そしてグーロフは、激しい動悸を抑えながら、心のなかで思うのだった。――
『やれやれ情けない! いったい何ごとだろう、この連中は、あのオーケストラは……』
 するとそのとき不意に、彼はあの
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