《がら》じゃまるでなくってよ」
ある夜ふけのこと、遊び仲間の役人と連れだって医師クラブを出ながら、彼はとうとう我慢がならなくなって口を切った。――
「実はねえ君、ヤールタで僕はうっとりするような美人と交際を結んだんですよ!」
役人は橇に乗りこみ、しばらく走らせていたが、急に振り返りざま彼の名を呼んだ。――
「ドミートリイ・ドミートリチ!」
「ええ?」
「いや先刻あんたの言われたのは本当でしたな。いかにもあの※[#「魚+潯のつくり」、第4水準2−93−82]魚《ちょうざめ》は臭みがありましたわい!」
こんな何の変哲もない言葉が、どうした加減かぐいとグーロフの癇《かん》に触って、いかにも浅ましい不潔な言い草に思われた。何という野蛮な風習、何という連中なのだろう! 何という愚かしい毎夜、何という詰らない下らない毎日だろう! 半狂乱のカルタ遊び、暴食に暴飲、だらだらと果てしのないいつも一つ題目の会話。役にも立たぬ手なぐさみや、一つ話題のくどくど話に、一日で一番いい時間と最上の精力をとられて、とどのつまり残るものといったら、何やらこう尻尾《しっぽ》も翼《はね》も失せたような生活、何やらこう痴《たわ》けきった代物《しろもの》だが、さりとて出て行きも逃げ出しもできないところは、癲狂院《てんきょういん》か監獄へぶち込まれたのにそっくりだ!
グーロフはその夜まんじりともせず向っ腹を立てていたが、おかげであくる日は一日じゅう頭痛がとれなかった。続いて来る夜も来る夜もよく眠れず、しょっちゅう寝床の上に坐り込んで考えたり、部屋を隅から隅へ行きつ戻りつして明かした。子どもたちにも厭々《あきあき》したし、銀行にもうんざりしたし、どこへも行きたくはなし、何の話もしたくなかった。
十二月の休暇になると彼は旅行を思い立って、妻にはある青年の就職の世話をしにペテルブルグへ行って来ると言い置いて、実はS市へ出掛けて行った。何をしに? 彼は自分でもよく分からなかった。とにかくアンナ・セルゲーヴナに会って話がしたい、叶うことならゆっくりどこかで会ってみたい、と思ったのである。
彼は朝のうちにS市に着いて、ホテルの一番いい部屋をとった。部屋は床《ゆか》いちめんに灰色の兵隊|羅紗《らしゃ》が敷きつめてある。テーブルの上には埃で灰色になったインキ壺《つぼ》があって、片手に帽子を高く差しあげた騎馬武者の
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