アンナ・セルゲーヴナと別れたのはつい昨日のことのように、何もかもが記憶にはっきりしていた。そして追憶がますます強く燃えあがって行くのだった。宵《よい》の静寂のなかで子どもたちの予習の声が書斎まで聞こえて来ても、ふと小唄を耳にしても、料理屋でオルガンの鳴るのが聞こえても、または壁炉《カミン》のなかで吹雪が唸っても、たちまちもうあの波止場であったことから、山々に霧のかかっていた朝明けのことから、フェオドシヤから来た汽船のことから、接吻のことから、一切が残らず記憶によみがえって来るのだった。彼はいつまでも部屋の中を行きつ戻りつしながら、思い出をたぐったり微笑《ほほえ》んだりするのだったが、そのうち思い出はだんだん空想に変わって行き、過去が想像のなかで未来のことと混り合うようになった。アンナ・セルゲーヴナは夢には現われずに、どこへでもまるで影のように後からついて来て、彼を見まもっていた。眼をつぶると、彼女の面影がまるで現身《うつそみ》のようにまざまざと見え、しかも以前より美しく、若やいで、あでやかさを加えたような気がした。また彼自身もヤールタにいた頃より、われながら風采《ふうさい》が上がったような気がした。来る夜も来る夜も彼女は書棚の中から、壁炉《カミン》の中から、部屋の片隅から、じっと彼を見つめていて、彼にはその息づかいや、優しい衣《きぬ》ずれの音が聞こえるのだった。街へ出ると彼は女たちの姿を見送り見送り、彼女に似た女がいはしまいかと捜すのだった。……
そのうちにもう、自分の思い出話を誰かに聞かせたくてほとほと堪《たま》らなくなってしまった。しかしわが家でのろけ話もできないし、さりとて家の外にも相手がみつからない。まさか店子《たなこ》を相手にやるわけにも行かず、銀行にもこれといった相手がない。それにまた何の話すことがあるのだろう? 自分はあのとき果して恋をしていたのかしら? いったい自分がアンナ・セルゲーヴナと結んだ関係には、何かこう美しいもの、詩的なもの、またはためになるもの、あるいは単に面白いものでもいい、果してそれがあっただろうか? そこで余儀なく漠然と恋愛や女性のことを話してみるのだったが、誰ひとりとして彼の言わんと欲するところを察してくれる人はなく、ただ彼の妻がその濃い眉をもぐもぐさせながら、こう言っただけだった。――
「ヂミートリイ、あんたは二枚目なんぞの柄
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