我ながらさっぱり分からないの。世間でよく魔がさしたって言いますわね。今のわたしがちょうどそれなんですわ、わたしも魔がさしたんですわ」
「たくさん、もうたくさん……」と彼はつぶやいた。
 彼は女のじっと据わった怯《おび》えきった眼をつくづく眺め、接吻をしてやったり、小声で優しく宥《なだ》めすかしたりしているうちに、女も少しずつ落ち着いて来て、いつもの快活さを取り戻した。二人とも声を立てて笑うようになった。
 やがて彼らが外へ出たとき、海岸通りには人影ひとつなく、町はその糸杉の木立ともどもひっそり死に果てたような様子だった。が海は相かわらず潮騒《しおさい》の音を立てて、岸辺に打ち寄せていた。艀舟《はしけ》が一艘《いっそう》、波間に揺れていて、その上でさも睡《ねむ》たそうに小さな灯が一つ明滅していた。
 二人は辻馬車をひろって、*オレアンダへ出掛けた。
「いま僕は階下《した》の控室で、君の苗字がわかっちまった。黒板にフォン=ヂーデリッツとしてあったっけ」とグーロフは言った。「君の御主人はドイツの人?」
「いいえ、あの人のたしかお祖父《じい》さんがドイツ人でしたわ。けれどあの人は正教徒ですの」
 オレアンダで二人は、教会からほど遠からぬベンチに腰かけて、海を見おろしながら黙っていた。ヤールタは朝霧をとおして微《かす》かに見え、山々の頂きには白い雲がかかってじっと動かない。木々の葉はそよりともせず、朝蝉《あさぜみ》が鳴いていて、はるか下の方から聞こえてくる海の単調な鈍いざわめきが、われわれ人間の行手に待ち受けている安息、永遠の眠りを物語るのだった。はるか下のそのざわめきは、まだここにヤールタもオレアンダも無かった昔にも鳴り、今も鳴り、そしてわれわれの亡い後にも、やはり同じく無関心な鈍いざわめきを続けるのであろう。そしてこの今も昔も変わらぬ響き、われわれ誰彼の生き死には何の関心もないような響きの中に、ひょっとしたらわれわれの永遠の救いのしるし、地上の生活の絶え間ない推移のしるし、完成への不断の歩みのしるしが、ひそみ隠れているのかも知れない。明け方の光のなかでとても美しく見える若い女性と並んで腰をかけ、海や山や雲やひろびろとした大空やの、夢幻のようなたたずまいを眺めているうちに、いつか気持も安らかに恍惚《うっとり》となったグーロフは、こんなことを心に思うのだった――よくよく考えて
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