て眠らずに心配しつづける雌鶏《めんどり》にひきくらべてみるのだった。クーキンはモスクヴァで手間どって、帰るのは復活祭の頃になると書いてよこし、手紙の都度『ティヴォリ』遊園のことで早手まわしに色々と指図をしてよこした。ところが一夜あければ*御受難週の月曜日という晩おそく、とつぜん不吉なノックの音が門口でした。誰かしら木戸を、まるで樽《たる》でもたたくように、ブーム! ブーム! ブーム! と叩いたのだった。寝ぼけ眼《まなこ》の炊事女が、はだしで水たまりをぱちゃぱちゃいわせながら、木戸をあけに駈《か》けだした。
「開けてください、まことにお手数さま!」と誰かが門の外で、陰《いん》にこもった低音《バス》で言うのだった。「電報ですよ!」
 オーレンカは前にも良人から電報をもらったことは何べんかあったけれど、今度はどういうわけかはっと気が遠くなってしまった。ぶるぶる顫《ふる》える手で彼女は電報の封を切って、次のような文面を読んだ。
『イヴァン・ペトローヴィチ キョウ キュウセイ、ヌ[#「ヌ」に傍点]グ サシズマツ、ツ[#「ツ」に傍点]ウシキ カヨウビ』
 とこんなぐあいにその電報には『ツウシキ』だとか、更にもっとちんぷんかんぷんな『ヌグ』だとかいう字が打ってあった。署名はオペレッタの一座の監督の名になっていた。
「いとしいあなた!」とオーレンカはおいおい泣きだした。「あたしの懐かしい、いとしいあなた! 何だってあたしはあなたとめぐり合ったんでしょう? 何だってあたしはあなたという人を知って、恋したりなんぞしたんでしょう? あなたはこの哀れなオーレンカを、この哀れな不仕合せな女を棄てて、いったい誰に頼れと仰しゃるの?……」
 クーキンの埋葬は火曜日に、モスクヴァのヴァガニコヴォ墓地で行なわれた。オーレンカはわが家へ水曜日に帰って来たが、自分の部屋へはいるが早いかばったり寝台の上に伏し倒れて、声をかぎりに号泣したので、往来や隣近所の中庭までよく聞こえた。
「可愛い女《ひと》がねえ!」隣近所の女たちは、十字を切りながらそう言うのだった。「可愛いオリガ・セミョーノヴナがねえ、おばさんや、あれあんなに嘆き悲しんでいますわよ!」
 それから三月《みつき》ほどして、ある日オーレンカは昼のお弥撒《ミサ》から、しょんぼりと、大喪の服に身をつつんで家路を辿っていた。偶然その彼女と肩をならべて歩いていたのは、やはり教会から帰る途中のヴァシーリイ・アンドレーイチ・プストヴァーロフという近所の男で、これは大問屋ババカーエフの材木置場の管理をまかされている人物だった。彼は麦わら帽子をかぶって、白いチョッキには金鎖をからませなどして、小商人というよりむしろ地主の旦那然としたいでたちだった。
「何事によらず物にはそれぞれ定まった命数というものがありましてね、オリガ・セミョーノヴナ」と彼は悟り澄ましたような調子で、声に同情を含ませて話すのだった。「ですから誰か身うちの者が死んだとしても、それはつまり神様の思召しなんですから、そんな場合にもわれわれは気をしっかり持って、すなおに堪《た》え忍ばなければならないんですよ」
 オーレンカを木戸のところまで送って来ると、彼は別れを告げて、そのまま向こうへ歩いて行った。それ以来というもの、日がな日ねもす彼女の耳には彼の悟り澄ましたような声がきこえ、ちょいと眼をつぶってもたちまち彼の真っ黒な髯《ひげ》がちらつくようになった。彼女はすっかり彼が気に入ってしまったのである。それのみか、どうやら彼女の方からも相手の胸に感銘を与えたらしいという証拠には、それから二、三日すると、平生あまり顔なじみのないさる年配の婦人がコーヒーを飲みにやって来て、食卓に向かって座を占めるが早いか、早速もうプストヴァーロフのことをしゃべり出して、あの人はしっかりしたいい人だ、あの人の所へならどんな花嫁さんでも喜んで行くにちがいない、などとまくし立てたものである。それから三日すると今度は当のプストヴァーロフまでが訪問して来た。彼はほんのちょっと、十分ばかりいただけで、あまり口数もきかなかったが、オーレンカはすっかり彼に恋してしまったのみか、それがまた一通りや二通りの慕いようではなく、その晩はまんじりともせずにまるで熱病にでもやられたように心を燃やし身を焦がし、朝になるのを待ちかねて例の年配の婦人を呼びに使いを走らせるという騒ぎだった。まもなく結納《ゆいのう》がすみ、やがて婚礼があった。
 プストヴァーロフとオーレンカは夫婦になって楽しく暮した。たいてい彼は昼飯まで材木置場に陣どっていて、それから外交に出掛けるのだったが、あとはオーレンカが引き受けて、夕方まで帳場に坐り込んで勘定書を作ったり、商品を送り出したりするのだった。
「当節じゃ材木が年々二割がたも値あがりになっ
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