可愛い女
DUSHECHKA
アントン・チェーホフ Anton Chekhov
神西清訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蠅《はえ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一生懸命|粒《つぶ》よりの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)いいのよ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]

*:注釈記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)『*ティヴォリ』
−−

 オーレンカという、退職八等官プレミャンニコフの娘が、わが家の中庭へ下りる小さな段々に腰かけて、何やら考え込んでいた。暑い日で、うるさく蠅《はえ》がまつわりついて来るので、でももうじき夕方だと思うといかにもうれしかった。東の方からは黒い雨雲がひろがって来て、時おりその方角から湿っぽい風が吹いていた。
 中庭のまんなかにはクーキンという、遊園『*ティヴォリ』の経営主と持主とを一身に兼ねて、やはりその屋敷うちの離れを借りて住んでいる男がたたずんで、空を眺めていた。
「またか!」と彼は捨てばちな調子で言うのだった。「また雨と来らあ! 毎日毎日雨にならないじゃ済まないんだ――まるでわざとみたいにさ! これじゃ首をくくれというも同然だ! 身代限りをしろというも同然だ! 毎日えらい欠損つづきさ!」
 彼はぴしゃりと両手を打ち合せると、オーレンカの方を向いて言葉をつづけた。――
「つまりこれなんでさ、ねえオリガ・セミョーノヴナ、われわれの渡世って奴は。まったく泣きたくなりまさあ! 働く、精を出す、うんうんいう、夜の目も寝ない、ちっとでもましなものにしようと考えづめに考える、――ところがどうです? 一つにはまずあの見物《けんぶつ》で、これが無教育で野蛮と来ている。こっちじゃ一生懸命|粒《つぶ》よりのオペレッタや、夢幻劇や、すばらしい歌謡曲の名人を出してやるんだが、それが果してあの手合いの求めるものでしょうか? 奴らにそんなのを見せたところで、果して何かしら分かってくれるでしょうかね? 奴らの求めるのは小屋掛けの見世物なんでさ! 奴らにゃ俗悪なものをあてがいさえすりゃいいんでさ! さてお次は、まあこの天気を見て下さい。晩はまずきまって雨と来ている。五月の十日から降り癖がついて、それから五月、六月とぶっ続けじゃ、お話にも何にもなりませんよ! 見物はまるで来ない、だが私の方じゃちゃんと地代を納めるんじゃないですか! 芸人の払いもするんじゃないですか?」
 あくる日も夕方ちかく又もや雨雲がひろがって来たので、クーキンはヒステリックな笑い声を立てながら言うのだった。――
「ええ何てこったい? 勝手に降りやがれだ! いっそ遊園ぜんたい水びたしにしちまうがいいや、いっそこの俺を水びたしにしちまうがいいや! 俺のこの世の幸福も、いやさあの世の幸福も、どうなりと勝手にしやがれだ! 芸人どもが俺を訴えたけりゃ訴えるがいいや! 裁判所がなんだい? シベリヤへ徒刑にやられたって構やせんぞ! 断頭台もあえて辞しはせんぞ! ハ、ハ、ハ!」
 そのまた翌日も同様だった。……
 オーレンカは黙って真剣な顔つきでクーキンの言葉を聴いていたが、時には彼女の眼に涙のうかぶこともあった。やがての果てに彼女はクーキンの不仕合《ふしあわ》せに心を動かされて、彼を恋してしまった。彼は背のひくいしなびた男で、黄色い顔をして、ちょっぴりしたもみ上げの毛をきれいになでつけて、幅のない中音《テノール》で話をして、ものを言うとき口を曲げるのが癖だった。彼の顔はいつ見ても絶望の色を浮かべていたけれど、だがそれでもやっぱり彼は、彼女の胸に正銘まぎれもない深い感情を呼びさましたのである。彼女はしょっちゅう誰かしら好きで堪《たま》らない人があって、それがないではいられない女だった。以前彼女はお父さんが大好きだったが、そのお父さんも今では病気になって、暗い部屋の肱掛椅子《ひじかけいす》に坐り込んだなり、苦しそうに息をしている。叔母さんが大好きだったこともあるが、それはときたま、二年に一度ぐらいの割合でブリャンスクから出てくる人だった。それよりもっと前には、初等女学校へ通っていた頃、フランス語の男の先生が大好きだったこともある。彼女は物静かな、気だてのやさしい、情けぶかい娘さんで、柔和なおだやかな眸《ひとみ》をして、はちきれんばかりに健康だった。そのぽってりした薔薇《ばら》いろの頬や、黒いほくろが一つポツリとついている柔かな白い頸《くび》すじや、何か愉快な話を聴くときよくその顔に浮かび出る善良なあどけのない微笑やをつくづく眺めながら、男の連中は心のなかで『うん、こりゃ満点だわい……』と考
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