けているような気がしてならなかった。そこで彼女は少年を自分のいる離れへ引き取って、小部屋を一つ当てがってやった。
さてサーシャが彼女のいる離れに住むようになってから、早くも半年になった。毎朝オーレンカが少年の部屋へはいって見ると、彼はぐっすり眠っていて、片方の腕に頬をのっけたまま寝息ひとつ立てない。彼女は起こすのが可哀そうな気がする。
「サーシェンカ」と彼女は悲しそうに言う。「起っきなさい、坊や! 学校の時間ですよ」
少年は起きて、服をきて、神様にお祈りをして、それからお茶を飲みに坐る。お茶をコップに三杯のんで、大きな輪形ビスケットを二つと、バターのついたフランス・パンを半かけら食べる。彼はまだ眼がさめきらないので機嫌がわるい。
「ねえサーシェンカ、あんたまだお伽詩《とぎし》の暗誦《あんしょう》がよくできてなかったわね」とオーレンカは言って、まるで彼を遠い旅へ送り出しでもするような眼つきで、じっと少年を見まもる。「世話を焼かせる子だこと。ほんとにしっかりやるんですよ、坊や、勉強するんですよ。……先生の仰しゃることをよく聴いてね」
「いいってば、ほっといとくれよ、お願いだから!」とサーシャが言う。
それから彼は往来を学校の方へ歩いてゆく――自分は小っぽけなくせに、大きな制帽をかぶってランドセルを背負っている。そのあとからオーレンカがそっとついて行く。
「ちょっとサーシェンカ!」と彼女が呼びとめる。
少年がふり返ると、彼女はその手に棗《なつめ》の実やキャラメルを握らせる。学校のある横町をまがると、少年は自分のあとから背の高いでぶちゃんの女がついて来るのが恥ずかしくなって、くるりとふり返ってこう言う。――
「ねえ、おばさんは家へお帰りよ、僕もう一人で行けるから」
彼女は歩みをとめて、瞬《またた》きもせずに少年の後ろ姿を、学校の昇降口へ消えてしまうまで見送っている。ああ、どんなに彼女にはこの子がいとしいことだろう! 彼女がこれまでに覚えた愛着のなかには、これほど深いものは一つとしてなかったし、また日一日と胸のうちに母性の愛情がつよく燃えあがってゆく現在ほどに、彼女がなんの見さかいもなしに、欲も得もはなれて、しん底からのうれしい気持で、自分の魂をささげきる気になったことは、後にも先にもただの一度もありはしなかった。彼女にしてみれば赤の他人のこの少年、その両の頬にある
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