有様は、まるで長い眠りからめざめた人のようだった。獣医の奥さんもやって来たが、これは痩せほそった器量のわるい婦人で、髪の毛は短く、意地っぱりらしい顔つきだったし、また一緒について来たサーシャという子は、年のわりに小柄で(彼はもう十歳《とお》になっていた)、まるまると肥って、きれいな空色の目をして、両の頬には靨《えくぼ》があった。少年は庭へはいるが早いか、すぐに小猫を追っかけまわしはじめ、かと思うとたちまちもう彼の快活なうれしそうな笑い声がきこえた。
「おばさん、これおばさんとこの猫?」と彼はオーレンカに聞いた。「この猫が仔《こ》を生んだら、済まないけど、うちにも一匹くださいね。ママはとてもねずみがきらいなの」
オーレンカは少年を相手にしばらく話したり、お茶を飲ませてやったりするうちに、彼女の心臓は胸の底でみるみる温かくなり、あまくしめつけられて来たぐあいは、さながらこの少年が生みのわが子ででもあるようだった。そして、晩になって彼が食堂に腰かけて復習をしていると、彼女は感動と同情のこもった眸でじっとその顔を眺めながら、こうささやくのだった。――
「まあ、なんて可愛らしい、きれいな子だろう。……あたしの坊や、それにほんとにお利口に、ほんとに色白に生まれついたものねえ」
「島とは」と少年は声を張りあげて読んだ。「陸地の一部にして四面水もて囲まれたるをいう」
「島とは陸地の一部にして……」と彼女はあとについて言ったが、これこそ彼女が永年にわたる沈黙と、想いのうちにひそむ空虚とを破って、確信をもって口にした最初の意見だった。
こうして彼女にはもう自分の意見というものが出来たので、夜食のときなどサーシャの両親を相手に、当節では子どもたちも中学の勉強がなかなか難しくなってとか、しかしどっちかといえばやはり古典教育の方が実科教育よりも優れている、というのは中学を出たときどの方面へも道が開けていて、志望によっては医者にもなれ技師にもなれるから、などと述べたてるのだった。
サーシャは中学へ通うようになった。彼の母親はハリコフの姉さんのところへ行って、そのまま帰って来なかった。父親の方はというと毎日どこかへ家畜の検疫に出掛けて、時によると三日も続けて家をあけることがあるので、オーレンカはサーシャが両親にすっかり打棄《うっちゃ》られて、一家の余計者扱いにされ、飢《う》え死《じに》しか
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